14)、日本の洋画黎明期の画家たち その1 平賀源内

その1 平賀源内(雅号 鳩渓)

平賀源内は享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。 そして亡くなる安永8年(1780年)まで、いわば江戸時代中期に、各方面、分野で活躍した 偉人、天才であった。 本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作家、浄瑠璃作家、俳人、洋画家(蘭画家)、 発明家として極めて多彩な才能をいかんなく発揮した時代の先駆者、偉人であった。 画家としての源内は明和7年(1769年)ごろ2回目の長崎遊学によってオランダの洋風画法を学んで いる。 その時に描いた作品が神戸市博物館に所蔵されている。 「西洋婦人図」である。 これが日本における最初の油絵と思われる。 写実的な西洋画に強く引かれた源内は自ら実技を身に付けてこの絵を描いた。 その2年後、秋田の鉱山指導に招かれて、角館の宿で小野田直武に西洋画の陰影法、遠近法を 教えている。 それがきっかけで小野田直武は江戸に立ち、解体新書の挿絵を描き、西洋画法を身に付けて秋田に 蘭画が広まる。 秋田蘭画ー司馬紅漢の銅版画、小野田直武の油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内がいたと 推察される。 源内の才能は多岐にわたり、洋画だけでなく、                    発明家としての源内ーー日本初の万歩計、磁針計、水準器、発電機(エレキテル)などの発明                                                                                                                                     文筆家としての源内ーー戯作家、浄瑠璃作家 陶芸家としての源内ーー源内焼き、陶芸指導者                                                                                                                                     本草家としての源内ーー今の薬学、博物学のことで、日本初の物産展の開催                     起業家としての源内ーー製陶事業、羅紗の製造 鉱山家としての源内ーー金、銀、銅、磁石、などの採掘

 

14)、日本の洋画黎明期の画家たち その2 小野田直武

その2 小野田直武

小野田直武は寛延2年(1750年)に秋田藩角館に生まれた。安永9年(1780年)没。 江戸時代中期の画家であり、秋田藩士。 平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。 安永2年(1773年)鉱山技術の指導のため平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。 一説には宿の屏風絵に感心した源内が作者である直武を呼んだとか。 源内は直武に西洋画を教えた。日本画にない陰影法、や遠近法を教えた。 同年、直武は江戸の源内のところに寄寓する。 そして、前沢良次、杉田玄白らによる解体新書の翻訳作業が行われ、図版を印刷するために大量の図を 写し取る必要があり、玄白と源内が親友であることから直武がその作業を行うことになった。 解体新書の前に解体約図が発行されていて、直武が担当した解体新書の方が陰影表現に優れていた。 直武は源内のもとで西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。 そして、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行い、この3人が中心となった一派が秋田蘭画又は 秋田派となった。 小野田直武の代表作 東叡山不忍池図(秋田県立近代美術館) 児童愛犬図(秋田市立千秋美術館) 唐太宗花鳥山水図(秋田県立近代美術館) 笹に白兎図(秋田市立千秋美術館) などがある。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その3 佐竹曙山

その3 佐竹曙山(義敦)

寛延元年(1748年)-天明5年(1785年) 出羽の国久保田藩(秋田藩)第8代藩主、曙山は号、本名 義敦。 明和年頃(1765年)、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれている狩野派から絵を学んだ。 そして藩士の小野田直武からからも教えを受けて、日本画と西洋画を組み合わせた一代的な画法 を作り出した。 佐竹義敦の命により、平賀源内の下で絵の修行に励んだ小野田直武は源内の友人であった杉田玄白 の解体新書における付図の作画を行った。 そして秋田の帰国後、義敦と直武は画法綱領、画図理解 などの西洋画論を著した。 これは日本最初の西洋画論である。 義敦は松に唐鳥図(重要文化財)、燕子花にハサミ図、竹に文鳥図、湖山風景図などの絵画のほか 膨大な数のスケッチを描き、それを写生帖にまとめている。 義敦と直武が創始した洋風画は秋田派とも秋田蘭画とも呼ばれている。 義敦は天明5年(1785年)38歳で死去した。 秋田蘭画の多くは絹本着色で掛け幅という東洋画の伝統的な形態をとりながらも、画題の上では 洋風の風景画や静物画を、技法の上では陰影法、や大気遠近法など、西洋絵画の手法を多く 取り入れており、近景に濃淡の花鳥、静物をおき、遠景には水辺などの風景、あるいは何も描かず 淡い色彩で距離感を表している場合が多く、また縦長構図の作品が多い。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その4 川原慶賀

その4 川原慶賀

天明6年(1786年)長崎の今下町に生まれる。万延元年(1860年)没。 江戸時代後期の長崎の西洋風画家である。 出島出入り絵師として、風俗画、風景画、肖像画、生物の精細な写生図なども描いた。 父親(川原香山)も町絵師であった。 当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。 出島オランダ商館への出入りを許されて長崎の風俗画や風景画、出島の商館員達の生活も描いた。 文政6年(1823年)にシーボルトが商館付き医師として来日し、日本の動植物などを蒐集 し始めた。慶賀はこのシーボルトの求めに応じて、日本という本の挿絵のために精細な動植物の 写生図を描いた。 又、文政9年(1826年)のオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行して、道中の 風景画、風俗画、人物画なども描いた。 慶賀は伝統的な日本画法に西洋画法を取り入れていた。また精細な動植物については、シーボルト の指導もあった。 日本に現存する作品は約100点、オランダに送られてヨーロッパ各地に分散した慶賀の作品は 6000-7000点とも言われている。 慶賀の描いた動植物図のほとんどはオランダに送られ、シーボルトの著作である日本動物誌等の 図として使用された。 慶賀の作品は長崎歴史博物館、福岡市博物館などに所蔵されている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち

その5 高橋由一

高橋由一は文政11年(1828年)の江戸で生まれる。明治27年(1894年)没。 近世にも洋画や洋画風を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し 江戸後末期から明治中頃まで活躍した日本で最初の洋画家と言われている。 わずか2歳で絵筆を取って人面を描き、母親を驚かせたという。 12-3歳頃から藩主堀田家に出入りの狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。 弘化4年(1847年)20歳の時に描いた、広尾稲荷神社拝殿天井画墨龍図は狩野派の筆法 で力強い龍を描いており、すでに日本画家として十分な力量を備えていたことが窺える。 嘉永年間、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写 に強い衝撃を受ける。 以後、洋画の研究を決意して、生涯その道に進むことを決意している。 本格的に油彩を学ぶことができたのは慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいた イギリス人ワーグマンに師事した時である。 翌年にはパリ万国博覧会に出展している。 明治時代に入り、明治6年(1873年)に画塾天絵舎を創設。 弟子第一号の淡島椿岳、原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画の川端玉章、岡本春暉、荒木寛敏 ら、多くの弟子を養成する。 明治12年(1879年)金刀比羅宮で開かれた第2回琴平博覧会に出品し、博覧会終了後 全作品を金刀比羅宮に奉納した。 現在境内の高橋由一館に27点収蔵されている。 代表作は有名な鮭であるが、現在東京藝術大学に収蔵されている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その6 横山文六

その6 横山文六

日本は寛永16年(1639年)から200年に及ぶ鎖国体制に入り、幕府の強い管理下とはいえ 唯一交易を許されたオランダだけが長崎を文化交流の地として文物を日本に送り込んでいた、 西洋画法が日本に入ってきて北海道に伝わるのは秋田、長崎との直接的なかかわりは全くない。 外国に向けて開港された箱館(函館)から洋画の歴史が始まる、という点では長崎のそれと同様な 形をとっている。 長い鎖国時代が終わって安政元年(1854年)幕府は日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約 を結び長崎、下田、函館を開港する。 そして入港したロシア軍艦の乗組員によって函館の西洋画は黎明期の入口に立つ。 ロシアの画家レーマンがロシア軍艦デアナ号で函館に入港、上陸して街の景色を描いていると、 高田家の一族 横山文六(幼名 松三郎)という少年に話しかけられる。その熱心さにひかれて レーマンは洋画の手ほどきをした、と伝えられている。 文六は明治6年(1873年)ごろ高橋由一の天絵舎と肩を並べて東京下谷地に洋画塾を開いた。 文六(松三郎)は天保9年(1838年)生まれ。 ロシアの軍艦デアナ号が再来日したとき、ここに絵も描き、写真も撮る、海軍中尉アレキサンドル、 ファードロビッチモジャイスキーが乗り組んでいた。モジャイスキーの前にロシア語が片言話せる 横山文六が現れた。 モジャイスキーと文六は函館の山道を歩き、文六はモジャイスキーの手先をじっと見つめ、 まずは実景を速写し、しかるのちおもむろに正写調整すべし、と教えを受けたという。 文久元年(1861年)ロシア人レーマンの助手となって西洋画や写真術を学ぶ。 北海道に西洋画法が入ってきたのはこのあたり、秋田、長崎から50年以上遅れている。 横山文六は北海道西洋画の黎明期の画家であり、同時に日本で最初の写真家でもある。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その7 百武兼行

その7 百武兼行

1842年7月(天保13年6月)佐賀藩士百武家兼貞の次男として生まれる。 1884年12月(明治17年)没 百武兼行は日本近代の洋画家で外交官である。 日本で最初に洋画裸婦像を描いた人物。 フランスで初めて洋画を学んだ日本人と言われる。 幕末、明治維新を経て、明治4年(1871年)岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧し、この滞在期間中 に洋画を学び制作活動を行う。 本来は画家ではなく、外務書記官であり、帰国後には農商務省へ出仕した政府役人である。 そのため日本美術史において日本人初の洋画家としての評価が確立されていない。 また、日本人で最初にオックスフォード大学に留学した人物の1人である。 3回の渡欧のうち第一次(明治4年ー明治7年)は岩倉使節団にて渡欧、アメリカを経てロンドンに赴き オックスフォード大学で経済学を学ぶが、明治7年に発生した佐賀の乱により帰国する。 第2次(明治7年ー明治12年)はふたたび、同年の内に渡英。 ロンドンでは主に風景画、パリでは人物画の技法を学ぶ。 初めて洋画を学んだのは百武兼行が33歳のときであり、しかも翌年の1876年(明治9年)には ロイヤルアカデミーオブアーツの展覧会に作品が入選する。 このときの代表作にバーナード城がある。 1878年(明治11年)本格的に洋画技術を習得するために美術学校教授でアカデミー派の大家 レオンボナに師事する。1879年(明治12年)パリから帰国。 第3次(明治13年ー明治15年)は駐伊公使となった鍋島直大に随行してローマに赴く。 ローマでは外務書記官としての公務のかたわら、街中にアトリエを借り、王立ローマ美術学校名誉教授 チェーザレマッカリの指導を受ける。 この時に描いた臥裸婦は日本人が油絵で描いた最初の裸婦と言われている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その8 床次正精

その8 床次正精

床次正精は1842年(天保13年)薩摩藩士児玉家の三男児玉宗次郎実富として生まれ、1860年 (万延元年)床次家の養子となり、床次家を継ぐ。 1897年(明治30年)没。 明治初期の日本の洋画黎明期の画家であるが、作品は20点ほどしか現存していない。 床次は剣を新陰流に学び、薩摩藩内では剣名は高かったと言われている。 また7歳で日本画狩野派の能勢一清の弟子になり、日本画を学び始めている。 床次は洋画家として知られるが、日本画も職業にできるほどの腕前だった、と言われている。 幕末、島津久光の命で長崎に赴き、イギリス軍艦の視察をする。 このとき乗ったイギリス軍艦で見た油絵の写実性に床次は驚き、以降独学で洋画を学ぶ。

明治維新後明治5年には司法省に入り検事補。 明治10年宮城県上等裁判所検事 明治11年東京地方裁判所検事 を歴任、明治12年(1879年)グラント将軍(前アメリカ大統領)像を描いたことが新聞に載り 画家として知られる。 明治13年(1880年)裁判所を辞めて画業に専念する。 代表作は松島の絵2点、1点は宮中に献上。日光名勝図、西郷南洲像、帝国憲法発布の式場祝宴図 などがある。 特に西郷隆盛肖像画が有名であるがその前に西郷の肖像画ではエドアルドキヨッソーネ作のものがあるが キヨッソーネは西郷に会ったことはなく、親族の顔を参考にして描いたものである。 床次は西郷隆盛と面識があり、西郷の死後(明治20年)、記憶を頼りに何枚も絵を描き、西郷に近い 人達の意見を聞き修正して西郷隆盛像を完成させた。こちらの方がより本物に近いと言われている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その9 山本芳翠

その9 山本芳翠

山本芳翠は嘉永3年(1850年)美濃恵那郡明智村(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む 山本権六の長男として生まれる。明治時代の日本の洋画家である。 明治39年(1906年)没。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第に模写したと本人が回想している。 慶応元年(1865年)15歳の時北斎漫画に啓発されて画家を志す。 始めは京都で久保田雪江に南画を学ぶ。その後横浜で五姓田芳柳の門に入り、南画から洋画に転向。 五姓田芳柳の次男義松がチャールズワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に 触れる。 明治6年(1873年)末には東京に移り、肖像画で一家を成すまでになった。 1876年(明治9年)工部美術学校に入学し、アントニオフォンタネージの指導を受ける。 同年第1回内国勧業博覧会に勾当内侍月詠図を出品、花紋賞受賞、宮内庁買い上げとなる。 1876年(明治11年)フランスに留学、エコールデボザールでジェロームに絵画技法を学ぶ。 ここに日本から来た黒田清輝もいたが、黒田は法律家志望であったが、芳翠の強い勧めで洋画家に 転向させる。 1887年(明治20年)に帰国。版画家合田清とともに画塾生巧館を主宰、湯浅一郎、藤島武二、 白滝幾之助、北蓮蔵などを育てる。 1889年(明治22年)松岡寿、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎らと明治美術界を設立。 1894年(明治27年)黒田清輝が帰国すると、芳翠は画塾生巧館を黒田に譲る。黒田は画塾を 天真道場と改めた。 明治29年に明治美術界を脱退して、黒田が結成した白馬会に参加したが、晩年は演劇や歌劇に おける洋風舞台装置の制作を行った。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その10 川村清雄

その10 川村清雄

川村清雄(嘉永5年(1852年)-昭和9年(1934年))は明治期の洋画家。 明治洋画の先駆者のほとりで、近代日本画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、 ヴェネツイアなどで学んだ堅実な油絵技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油絵を描く独特の 画風を示した。 川村清雄は江戸麹町でお庭番を勤める川村元修正の長男として生まれ、7歳のとき、住吉派の絵師住吉内記 に入門。2年後大阪に就き、南画家の田能村直人に教えを受け、江戸に戻ると花鳥画の春木南溟に師事。 文久3年(1863年)英国留学のため画学局で高橋由一、らから西洋画法を学ぶ。 明治元年(1868年)徳川将軍家達の奥詰となる。 明治4年(1871年)勝海舟、大久保一翁らの斡旋により徳川宗家給費生として渡米。 明治6年パリに転じ、アレクサンゴル、カバネルの弟子、オラースドカリアスに学ぶ。 明治9年(1876年)イタリアに移り、ヴェネツイア美術学校に入学。ヴェネツイア派の巨匠たちに学ぶ。 帰国後明治15年(1882年)大蔵省印刷局に彫刻技手として勤務したが1年を待たず辞職。 明治16年勝海舟から徳川家代々の肖像画制作を依頼され、勝の援助により画室心華書房を建設する。 川村が留学中に受けた西洋画教育はフランスのアカデミック美術やヴェネツイア派の系譜を引く壮麗な 装飾画といった極めて正統的なものだった。しかし帰国後は日本的な伝統を重んじ、絹や金箔など日本画 の材料と手法を積極的に取り入れた。 反面川村は、晩年まで明るい部分を厚塗りし、暗部は薄塗りするなど、西洋の伝統的な油絵技法を用いて 描いている。そのため絵の具の固着力は良好で、油絵らしい緻密なマチエールを持っており、保管環境が 劣悪でも作品の損傷の程度は低い。清雄は油はポピーオイルを用い、リンシードは使わない。 筆は油彩のものと面相筆を半々か面相をやや多く使い、ペインティングナイフもよく使った。 白はシルバーホワイトを使い、ジンクホワイトは全く使わなかった。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その11 渡辺文三郎

その11 渡辺文三郎

渡辺文三郎は嘉永6年(1853年)備中国(岡山県)矢掛町に生まれる。昭和11年(1936年)没。 少年期に円山派豊彦の門弟種彦に日本画を学び、漢学塾興譲館に通学する。 1873年(明治6年)ころ、数学の学習を志して上京したが、同郷の先輩阪谷朗蘆方に寄寓し五姓田義松 に師事する。 1876年芳柳の長女勇子(のちの幽香)と結婚する。 1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会に洋灯下青年勉学図を出品。 同年東京大学予備門、大一高等中学校、高等学校の教師となる。 主な作品に相州海扶桑艦航海、春景山水、塩原福渓之図、塩原林之図など、油彩水彩多数。 著書のに中学臨画帳、習画自在がある。 渡辺文三郎は備中で円山派を学んではいますが、数学の道を志すなど、西洋に積極的に関わろうという姿勢 が伺われます。ちょうど忠臣義士の原画を描いたであろう頃に結婚してます。 又、なぜ文三郎が白虎隊をエーマにしたのか、なぜ忠臣義士の図を描いたのか、はっきりしない点だ多い ですが、当時の出版事情として画家の自由には出来なかった世相があります。画家が描きたいという希望 だけではどうにもならない時代でした。ある程度マーケットが確立さえており、刻々堂という出版社も 売れるとふんで出版したと思われる。 しかし彼の近親者は明治天皇など新政府寄りの絵を描いています。 五姓田芳柳は明治天皇の肖像画を沢山描いていますし、芳柳の息子で渡辺文三郎が師事した五姓田義松は 天皇巡幸にお抱え絵師として随行し、義松の妹で文三郎の妻、幽香も明治天皇の肖像画を手がけるなど 天皇家とは近い間柄でした。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その12 五姓田義松

その12 五姓田義松

五姓田義松は安政2年(1855年)に洋画家である五姓田芳柳の次男として江戸で生まれる。大正4年 (1915年)没。明治期に活躍した画家である。 義松は幼児から絵に才能を表して慶応元年、横浜で風刺漫画や油絵を描いていたイギリス人チャールズ、 ワーグマンに入門、明治元年ころ横浜に定住する。 1874年川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務。 1876年第1回内国勧業博覧会の洋画部門に阿部川富士図を出品し、鳳紋賞を受賞。 1878年より明治天皇のお付画家として北陸、東海地方の行幸に同行した。 1880年に渡仏し、レオンボナに師事。日本人初のサロンドパリ入選作家となる。この時出品したのは 水彩画であった。その後も画家デビビエの肖像、人形の着物でサロン入賞を重ねる。 1889年アメリカ合衆国を経由して帰国、明治美術会の創立に携わる。日清戦争にも従軍した。  義松は一見華やかな宮廷画家として論じられているが、あまり知られていない破滅的な負の時代があった。 それは8年に及ぶパリ留学時代に始まる。 はじめはサロンで活躍していたものの、その大半は借金に負われ、酒に溺れる荒んだ生活を送っていたらしい。 フランス女性との結婚を父に反対されたとも言われている。 義松の日記が公表され、その中にパリ滞在中の心の葛藤や苦悩が記されている。

 

14)日本の洋画黎明期の画家たち その13 渡辺幽香

その13 渡辺幽香

渡辺幽香は1856年(安政3年)江戸久留米藩邸内で生まれる。1942年(昭和17年)没。 洋画家(洋風画家)。父は五姓田芳柳、兄に五姓田義松がいる。 本名勇子、明治15年頃から幽香を号とする。 明治9年(1876年)同門の渡辺文三郎と結婚。渡辺幽香を名乗る、 父親の工房で兄義松から洋画を学び、、明治10年(1877年)第1回内国勧業博覧会に油絵「人物図」 「野州霧降滝図」を出品し褒状を受ける。明治23年(1890年)の第3回内国勧業博覧会でも 「五姓田芳柳像」で褒状を受ける。 肖像画を多く描いたが、明治17,8年ころから版画に興味をもち、銅板師松田緑山に学んだ後、ビゴー風 (ジョルジュ、フェルディナン、ビゴー フランス人の画家、漫画家。明治時代の日本で17年間にわたり 活動を行い、当時の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる)の西洋人好みの日本風俗を描いた 版画集「大日本帝国古今風俗陰漫稿」(石版、1886年)を緑山のもとで制作、外国人向けに販売する。 その後も日本の風俗を描いた「大日本風俗漫画や「日本かがみ」などを発表する。 又、長年華族女学校の画学教師を努めた。 1893年、シカゴ万国博覧会に「幼児図」を発表した。臼に縛りつけられながらも蜻蛉を採ろうと這い出す。 したたかな表情の赤子はこれから世界の舞台へ押し出そうとする新興国日本をくしくも象徴している。 代表作は犬吠崎海岸は東京国立博物館に、五姓田芳柳像は東京藝術大学に、幼児図は横浜美術館に、それぞれ 所蔵されている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その14 浅井忠

その14 浅井忠

パリの南東に位置するバルビゾン村の風景や農村を描いたバルビゾン派の画家たち。 その代表的な画家であるミレーが、名作落穂拾いを描いたのは1857年のこと。それからほぼ20年後 の1876年、武家に生まれた男がその作品を目にします。その作品がその男に大きな感動を与え、 日本の洋画の世界に夜明けをもたらしました。 日本のミレーといわれた男が1890年に描いた、浅井忠作「収穫」 描かれているのはどこにもあるような普通の田舎の風景。この絵が描かれた当時、日本の洋画界には ようやく日が当たり始めた頃でした。 浅井忠は黒田清輝とともに日本近代洋画界の先駆者と呼ばれ、その存在がなければ、日本の洋画の歴史は 確実に遅れていたと言われています。 浅井の傑作である収穫の陰には、浅井が生涯の師と仰いだアントニオ、フォンタネージの存在がありました。 1876年58歳の時に日本にやってきた彼はバルビゾン派の流れを汲む風景画家でした。 日本の美術学校に教師としてやってきました。 浅井忠は1856年江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。1902年没。 1876年明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。 浅井忠がその第1期生として入学したのは20歳の時でした。ここでフォンタネージから洋画の基礎を 徹底的に学びました。 1889年上野に東京美術学校が創設されたが岡倉天心らの強い主張で西洋画科は置かれませんでした。 浅井はこれに対抗して自らが中心となって80人の会員で明治美術会を結成。その年に第1回展覧会を 開催しました。 1896年政府は東京美術学校に洋画科を復活させ、浅井自身が教授となり、その後2年間のフランス留学 を経て、京都に移り住み、梅原龍三郎、安井曾太郎など、のちの日本洋画界を担う逸材を育てました。

 

 

14)日本の洋画黎明期の画家たち その15 黒田清輝

その15 黒田清輝

黒田清輝は1866年(慶応2年)鹿児島薩摩藩士黒田清兼の子として生まれる。明治40年(1902年)没。 1893年(明治26年)27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。 法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、画家へ志望を転向。外光派の画家ラファエルコラン に師事し、アカデミックな絵画教育を受ける。 黒田を迎えて、日本の洋画界は大きな変化を遂げていくこととなる。 それまでは」明治9年開校の工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバルビゾン派風の作品が 主流であった。そこへ黒田は変化する光と大気の微妙な様を描き分ける、明るい色調の外光派風の作品を もたらした。この画風は新派、紫派と称され、たちまち人々の心をとらえていった。 また、黒田は西洋美術の伝統に基づいて、人体を描くことを重視、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着 させていく。明治29年東京美術学校に新設された西洋画科の指導を託されると、解剖学と実際の裸体モデル を使った人体デッサンを教育課程に組み入れた。 黒田が人体研究を重視したのは、構想画を絵画の最高位に位置づけたからである。 そのころ西洋ではポーズ等によって特定の意味や概念を象徴する人物像を組み合わせて神話や歴史、あるいは 愛や勇気などの主題を表す絵画が最も格が高いとされていた。 黒田もその価値観に従い、帰国後まもなく主題やモチーフを日本に求めた構想画として、昔語り、智、感、情 等を試みている。 明治31年東京美術学校西洋画科教授就任、同40年開設の文展のために尽力、 大正2年国民美術協会会頭、同9年貴族院議員となった。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その16 岡田三郎助

その16 岡田三郎助

岡田三郎助は1869年佐賀藩士の子として佐賀県佐賀市で生まれました。1939年没。 岡田は幼少のころ、父とともに上京、旧藩主の邸内で暮らします。 彼はその時に、同じ佐賀県出身の外交官で洋画家でもある百武兼行の油絵を見る機会にめぐまれました。 百武の作品に影響を受けた彼は画家を志すようになりました。 画塾で学んだのちの1894年(明治27年)、同郷の画家久米桂一郎が岡田を黒田清輝に紹介します。 黒田は前年、外光派の技法を身に付けてフランスから帰国したばかり。それまで伝統的な絵画技法しか 知らなかった岡田にとって、黒田たちとの出合いは大きな転機となりました。 1896年(明治29年)岡田は黒田、久米、藤島武二らとともに白馬会を創立。 翌年岡田は文部留学生としてフランス留学に出発。黒田も学んだラファエル、コランの画塾に入り、 勉強を重ねました。 1902年(明治35年)帰国後は藤島とともに東京美術学校の教授として、若い画家たちを指導、 岡田、藤島の教えは、その後の日本洋画のアカデミズムの主流を形成していくのに大きな役割を果たした のです。 岡田の代表作として、つづみを持った日本髪の女性を描いた婦人像がよく知られています。 この作品のイメージは三越呉服店のポスターや切手に使用されています。 もう1つ代表作イタリアの少女はフランス留学中に描かれた作品です。パステルの筆あとに、少女の 肌のやわらかさを表現しようとした画家の努力がうかがえます。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その17 藤島武二

その17 藤島武二

藤島武二は鹿児島市の薩摩藩士の家に生まれた。(1867年(慶応3年)-1943年(昭和18年)) 明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。 明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的な役割を果たしてきた。 ロマン主義的な作風の作品を多く残している。 最初は四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳のとき、洋画に転向。 1896年黒田清輝の推薦で東京美術学校(現東京芸大)助教授に推され、以後没するまで同校で後進の 指導にあたった。 1905年(明治38年)文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。 帰国後教授に就任。 黒田が主宰する白馬会にも参加。 白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年の白馬会解散後も文展や 帝展の重鎮として活躍した。 1902年に天平の面影を発表、明治ロマン主義の色濃い作品を次々に発表しました。 ヨーロッパ留学中はコルモン、カロリュス、デュランに指導を受けますが、同時に新しい思潮も吸収しました。 特にイタリア滞在中はのびのびした筆致で油絵具の特質を生かした人物画、風景画を多く残しました。 20年代前半はイタリアルネッサンス風の横顔の女性像を描き、西洋と東洋の融合を追及しています。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その18 熊谷守一

その18 熊谷守一

熊谷守一(1880年(明治13年)-1977年(昭和52年))は日本の美術史においてフォービズム の画家と位置づけられている。しかし作風は徐徐にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。 富裕層の出身であるが、極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、二科展に出品を続け、画壇の仙人と呼ばれた。 守一は機械紡績を営む事業化で地主の熊谷孫六郎(初代岐阜市長)の三男として岐阜県恵那郡付知(現 中津川市付知町)に生まれ、子供時代から絵を好んだ。 1897年(明治30年)慶応義塾普通科に入学するが1年で中退。1899年(明治32年)召集。 1900年(明治33年)東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。 1906年(明治39年)樺太調査隊に参加してスケッチを行う。 1909年(明治42年)第3回文展で自画像蝋燭が入賞。 1915年(大正4年)第2回二科展に出展、以後毎年出品。 1922年(大正11年)42歳で大江秀子と結婚、5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。 1932年(昭和7年)池袋モンパルナスと称される地域の近くに家を建て、残りの生涯をこの家と15坪 の小さな庭からほとんど出ずに家族、猫、鳥と過ごす。 1947年(昭和22年)二紀会創立に参加。1951年(昭和26年)二紀会退会、無所属作家となる。 守一は写実画から出発し、表現主義的な画風を好み、やがて洋画の世界で熊谷様式といわれる独特な様式 極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な構成を持った抽象度の高い具象画スタイル を確立した。 岐阜県中津川市と東京都豊島区に熊谷守一美術館がある。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その19 坂本繁二郎

その19 坂本繁二郎

坂本繁二郎は明治15年(1882年)に旧久留米藩士の次男として生まれました、(1969年(昭和44年)没) 幼いころから絵の虫と呼ばれいた繁二郎は、10歳のときに洋画家の森三美が主催する画塾に入門。 繁二郎の絵は評判となり、神童と呼ばれるようになった。 転機が訪れたのは20歳のとき、小学校の代用教員として図画を教えていた繁二郎の元に、東京の美術学校に進学 していた青木繁が一時帰郷でやってきた。 青木の絵に驚いた繁二郎は絵の勉強のため青木とともに上京。洋画家の小山正太郎の画塾に入門。 画家への道を歩み始める。 坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであった。 そして30歳の時に描いたうすれ日が出世作となり、夏目漱石に称賛される。 39歳の時にフランスに絵画修行のため留学。 留学から戻って、福岡県八女にアトリエを建て、ここを終の住処と決めます。 そこで50歳の時に繁二郎の生涯のモチーフとなる馬と出合います。 のびのびと自由に生きる馬たちの姿が、繁二郎を魅了したのです。 八女に移り住んで初めて描いた馬の絵が「放牧三馬」です。 繁二郎は、馬という美しい生き物と共に、独自の光の世界を追い求めていきます。 この独自の表現は、ヨーロッパと日本の鐘の音の違いからヒントを得たといいます。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その20 青木繁

その20 青木繁

青木繁(1882年ー1911年)は日本の明治期の洋画家である。 明治期日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作「海の幸」は明治期洋画の記念碑的作品 と評されている。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描きあげた一方で、世間的な成功に恵まれず 放蕩生活の末、満28歳の若さで没した。 短命だったこともあり、残された作品の数は決して多くはない。 青木繁は今の福岡県久留米市に旧有馬藩士である青木廉吾の長男として生まれた。 同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同年で小学校の同級生でもあり、終生、親友であり、ライバルで あった。 青木は1899年(明治32年)満16歳の時に中学校の学業を放棄して単身上京。画塾不同舎にはいって 主宰者小山正太郎に師事した。 1900年(明治33年)東京美術学校西洋画科選科に入学、黒田清輝から指導を受ける。 1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した神話画稿は白馬会賞を受賞した。 古事記を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル 前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。 1907年(明治40年)郷里の父の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷、これが青木と家族との永遠の 別れとなった。郷里の家族とも別れて天草、佐賀など転々とする放浪生活に入った。 1911年(明治44年)入院先の福岡市の病院で死去、満28歳8ヶ月の若さであった。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その21 高村光太郎

その21 高村光太郎

高村光太郎(1883年(明治16年)-1956年(昭和31年))は日本を代表する、彫刻家であり、 画家であった。が今日にあっては「道程」「智恵子抄」等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載され ており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。 しかし高村光太郎はパリからの留学から帰った後、1912年(明治45年)に駒沢にアトリエを建て、 岸田劉生らと結成した第1回ヒュウザン会展に油絵を出品するなど、明治大正にかけて日本の洋画界の 一角を成していた洋画家である。 フュウザン会の発起人は斉藤与里、岸田劉生、清宮彬、高村光太郎など。活動期間は短いが日本で初めて 表現主義的な美術運動として、先駆的な意義を持つ。他にも木村荘八、萬鉄五郎、バーナードリーチら。 ポスト印象派、フォービズムの影響が見られる。斉藤与里と岸田劉生の主張が食い違ったため、2回の 展覧会を開いたのみで解散した。   高村光太郎は1897年(明治30年)東京美術学校彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に 与謝野鉄幹の新誌社の同人となり、明星に寄稿している。1902年に彫刻科を卒業し研究科に進むが 1905年(明治38年)に西洋画科に移った。 岸田劉生らと洋画界で活躍しているころ、1914年(大正3年)詩集道程を出版。長沼智恵子と結婚。 1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、このころから智恵子の健康状態が悪くなり、のちに 統合失調症を発病し1938年(昭和13年)に智恵子と死別。 その後1941年(昭和16年)に詩集「知恵子抄」を出版した。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その22 萬鉄五郎

その22 萬鉄五郎

萬鉄五郎(1885年ー1927年)は現在の岩手県和賀郡東和町で生まれた。 幼少期には日本画を学びましたが、ついで水彩画に興味を持つようになります。 1903年(明治36年)中学入学のため上京、在学中に白馬会洋画研究所で学びました。 中学時代より萬は禅宗の寺で参禅するようになり、卒業後の1906年、布教活動のための禅宗の一団 に加わって、半年間アメリカに渡ります。 帰国後は東京美術学校西洋画科に入学、在学中からアブサント会を結成するなど意欲的な活動を行います。 1912年(明治45年)萬は美術学校の卒業制作として「裸体美人」を完成させます。 この裸体美人は鮮やかな色彩で平面的に描かれ、日本のフォーヴィズムの先駆的な作品といわれています。 この美術学校卒業の年、萬は斉藤与里、岸田劉生らとともにフュウザン会を結成。 この会は後期印象派やフォーヴィズムに興味を持った若い画家たちの集団でした。 1914年(大正3年)、このころからキュビズムに通じる、面によって構成された作品を描くように なりました。 萬は生涯を通じて多くの自画像を制作しました。代表作の1つ「雲のある自画像」はフュウザン会時代に 描かれた作品です。左右の赤と緑の雲が思索的な暗示を与えているかのようです。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その23 藤田嗣治

その23 藤田嗣治

藤田嗣治(1886年ー1968年)レオナルド、フジタは東京都出身の画家、彫刻家。 現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家(晩年にフランスに帰化)である。 猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の乳白色の肌と呼ばれた裸婦像などは 西洋画壇の絶賛を浴びた。エコールドパリ(パリ派)の代表的な画家である。 エコール、ド、パリとは20世紀前半 パリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活 をしていた画家たち、1920年代を中心にパリで活動し出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。 1886年(明治19年)現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれた藤田嗣治は、父の上司 だった森鴎外の勧めも有り東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画に あきたらず、1913年、26歳のときにフランスに渡ります。 パリのモンパルナスに住んだ藤田嗣治はピカソやヴァンドンゲン、モディリアーニらエコールドパリの画家 たちと交流しました。 彼らに刺激され、独自のスタイルを追及するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感 を、油絵で表現しようと思いつきます。手製のなめらかなキャンバスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き 繊細な陰影を施した裸婦像は絶賛されました。 1919年にはサロンドトンヌに出品した6点の油絵が全て入選、ただちに会員に推挙されるなど、パリで 大人気となりました。 1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国、1933年以降は日本を活動拠点とします。 日中戦争が始まると祖国への貢献を願い戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として 批判を浴び、その責任を取る形で、日本を離れます。 再びパリで暮らし始め、日本には戻らないと決め、1955年にフランス国籍を取得。 1959年 72歳のときにカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられています。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その24 清水登之

その24 清水登之

清水登之は1887年(明治20年)栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれました。1945年没 幼いころから、画家になることに憧れをいだきつつ、はじめは軍人になることを志します。 くしくも士官学校への受験に失敗したことから、画家になること夢を実現するため、登之はまず、アメリカへ 渡ります。最初の5年間はワシントン州ワッバトの農園などで、ひたすら汗して働き、資金をためるという 生活でした。その後に移り住んだシアトルでは厳しい労働を続けながら、フォッコタダマという人物の画塾に 通います。5年にわたるシアトルでの生活の中で、登之は次第に画家としての頭角をあらわし始めます。 その後、ニューヨークへと生活の拠点を移します。 ニューヨークではデザインの仕事をしながら自由で先鋭な校風で知られるアートスチューデントリーグに 通いました。この学校には国吉康雄、石垣栄太郎、北川民治といった画家も通っていました。 夜間クラスを受け持っていたジョンスローンとの出合いは登之にとって決定的な意味を持つものでした。 スローンは都市に暮らす普通の人々のありのままの暮らしこそ目をむけるべきだとするアメリカンシーン派 を代表する画家の1人です。師スローンの影響から登之もまた市井の人々の暮らしをユーモアとともに 描きだすことになります。 一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に横浜夜景が招待出品。 一旦受賞が決まったもののアメリカ人でなかったため取り消しとなる。 1924年一家でパリに移住。三宅克己、藤田嗣治、海老原喜之助、清水多嘉示らパリ在住の画家たちと 交わりながら、サロンドートンヌで入選を果たす。 1927年に帰国。東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で地に憩ふにより二科賞受賞。 その後は独立美術協会の結成に加わる。 1932年ころは従軍画家となり戦争を題材とした絵を多く描いている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その25 中村彝

その25 中村彝

中村彝(つね)は明治20年 5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。大正13年没。 1歳の誕生日を迎える前に父を亡くした彝は陸軍軍人であった長男 直を父代わりとし、その影響を受けて 軍人を目指します。名古屋陸軍地方幼年学校に入学しスパルタ教育に耐え無事卒業、そして東京の陸軍中央 幼年学校に進学します。しかしその直後に肺結核と診断され、退校を余儀なくされ、失意のどん底に 突き落とされました。 そんな彝に救いの手を差し延べたのが絵画でした。以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は療養 しながら絵を描くようになります。 画業に励む決意を固めた彝は白馬会洋画研究所で本格的に学び始めます。 美術学校在学中には中原悌三郎、鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。 明治42年第3回文展で「巌」「曇れる日」が入選、巌は褒状を受賞、44年の文展で三等賞を得る。 同年彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。 アトリエで制作に熱中するあまり食事もろくにとらなかった彝を心配して相馬夫妻が食卓に招き、家族の 一員のように扱います。前記の文展で三等賞を取った人物画はこの相馬家の長女 俊子をモデルにしたもの です。しかし相馬夫婦は2人の仲を心配して次第に互いに接近することを妨げるようになります。 彝の恋は実らず、彼の短い生涯で最大の悲劇となりました。 以後、色々な土地を転々として、最終的に下落合のアトリエに落ち着きます。 傷心の彝は自炊生活や制作の疲れもあって、喀血が続きます。 友人から紹介された盲目の詩人ワシリーエロシェンコの像を友人と一緒に描き始め、作品は第2回帝展に 出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高傑作と評されました。 その後も精力的に自画像や家政婦岡崎キイをモデルに描きましたが、大正13年、結核のため永眠します。 37歳という短い生涯でした。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その26 黒田重太郎

その26 黒田重太郎

黒田重太郎(1887年ー1970年)は滋賀県大津市に生まれ、明治37年 17歳の時に京都に出て 鹿子木孟朗の門に入り翌年開設された聖護院洋画研究所に入所します。39年には浅井忠の内弟子となり 関西美術院に学んでいます。 鹿子木孟朗(かのこぎたけしろう)は明治39年浅井忠らと関西美術院を創立のちに院長となり関西画壇 を指導した人物。 明治44,45年、黒猫会、仮面会を結成し、新しい芸術運動を展開し、大正7年に渡仏。翌8年の 第6回二科展にピサロの影響を示す作品を発表して二科賞を受賞。 10年には再び渡仏、あんどれロートの写実的キュービズムの共鳴して、帰国後の第10回二科展でその 成果を発表しました。 その後も二科展で活動しますが昭和18年に退会し、戦後の22年に正宗得三郎、鍋井克之らと二紀会を 結成し、死去するまで活動の中心となりました。 一方、大正13年には信濃橋洋画研究所を昭和12年には全関西洋画研究所を開設するなど、関西洋画壇 の育成に尽力した。 昭和22年からは京都市立美術専門学校で教鞭をとり、25年以降は京都市立美術大学の教授として38年 に退職するまで後進の指導に情熱を注ぎました。 さらに美術関係の著書も多く残し、美術史研究においても優れた業績を残しています。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その27 梅原龍三郎

その27 梅原龍三郎

梅原龍三郎(1888年ー1986年)は京都市下京区の染物問屋に生まれる。 1914年(大正3年)までは名を良三郎と言った。 日本の洋画家で、画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評されていた、 第2次世界大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府立第2中学校を中退して、聖護院洋画研究所(関西美術院)に入る。主催していた浅井忠に師事。 1908年(明治41年)渡仏。ルノアールに薫陶を受ける。パリに滞在してアカデミージュリアンに 通った。 1913年(大正2年)に帰国。白樺社主催の個展 梅原良三郎油絵展覧会を開催。 翌年、文展に不満のある進歩的な洋画家たちが作った団体二科会創立に加わり、1922年には春陽会設立 にも参加している。 1925年土田麦僊の招きで国画創立協会に合流し、1928年(昭和3年)第二部国画会を起こし、 その中心となって後進の指導にあたった。 1935年 帝国美術院会員 1937年 帝国芸術院会員(日本芸術院)1957年辞任 1944年 東京美術学校教授 1952年 ベネチアビエンナーレ国際審査員、文化勲章受賞 風景画が主体で、華やかな色彩の中に東洋絵画の特色を生かした重厚な作風で知られ、独自の画風を確立 した。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その28 安井曾太郎

その28 安井曾太郎

安井曾太郎(1888年ー1955年)は大正から昭和期にかけての洋画家です。 1888年(明治21年)京都市中京区の木綿問屋の五男として生まれる。 1898年(明治31年)京都市立商業学校に入学するが、1903年に中退して絵の道へ進む。 1904年(明治37年)聖護院洋画研究所(関西美術院)に入る。浅井忠、鹿子木孟朗に師事。同時期に 梅原龍三郎らもここで学んでいた。 1907年(明治40年)渡欧。フランスではアカデミージュリアンに学ぶ。7年間滞在。 1914年(大正3年)帰国 1915年(大正4年)第2回二科展に滞欧作品44点を出品、二科会会員に推挙。 1930年(昭和5年)あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、第2次世界大戦前後を通じて 梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家とされる。 1935年(昭和10年)帝国美術院会員となる。そのためもともと文展に対抗して組織され、在野の立場 を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れざるをえなかった。 1936年(昭和11年)石井伯亭、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。安井は生涯、同会の委員を 努めた。戦後の文芸春秋の表紙画を担当した。 1944年(昭和19年)東京美術学校教授。 1952年(昭和27年)文化勲章受賞。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その29 国吉康雄

その29 国吉康雄

国吉康雄(1889年ー1953年)は日本の洋画家で岡山市の生まれです。 1904年に岡山県立工業高校の染料科に入学したが、1906年に退学。カナダ経由でアメリカに渡った。 目的は英語の習得とされている。当時日本人のアメリカ移民が流行していたという時代の背景もある。 17歳で単身渡米した国吉は当初は機関車の洗車やビルの床掃除など、生活で手一杯でした。 ロスの公立学校で教師に勧められてデザイン学校に入学。 その後ニューヨークに渡って本格的に絵を勉強します。 国吉は幸いなことに、アートステユーデンツリーグの学生時代にパトロンと出合い、さまざまな援助を受けます。 1922年、33歳の時、ニューヨークで開いた初個展が批評家たちから高い評価を得て、注目を集めるように なりました。 学生時代に、印象派や後期印象派などの画風を学んでいた国吉の作品に、まるい顔の特徴的な人物画が見られる ようになるのは1920年のこと、キュビズムとアメリカのフォークアートがイメージの源泉です。 国吉の絶頂期は1930年代から40年代にかけてです。カラフルなサーカスの絵を盛んに描いていたのは このころです。 1952年にアメリカでアジア系移民の市民権獲得が可能になりましたが、残念ながら翌年64歳で死去しま した。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その30 岸田劉生

その30 岸田劉生

岸田劉生(1891年ー1929年)は大正ー昭和初期の洋画家です。 父親は実業家、ジャーナリストの岸田吟香。 1891年(明治24年)東京銀座に生まれる。 1908年(明治41年)東京赤坂にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事した。 1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選。 1911年白樺主催の美術展がきっかけで、バーナードリーチと知り合い、武者小路実篤ら白樺周辺の 文化人とも知り合うようになった。劉生自身の図書、初期肉筆浮世絵、図画教育論などがある。 1912年高村光太郎、萬鉄五郎らと、ヒューザン会を結成。第1回ヒューザン会展には14点出品。 これが画壇への本格的なデビューといえる。 1915年(大正4年)現代の美術社主催第1回美術展(2回目以降は草土社展)に出品。 草土社のメンバーは木村荘八、清宮彬、中川一政、らであった。 第2回草土社展に出品された「切り通し写生(道路と土手と塀)」は劉生の風景画の代表作。 1917年(大正6年)結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢鴿沼の貸し別荘に療養の ため居住。 1918年頃から、娘の岸田麗子の肖像画を描くようになる。 この鴿沼に劉生を慕って草土社の椿貞夫や横堀角次郎も住むようになり、中川一政は岸田家の食客であった。 関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居、後に鎌倉に居住。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散に なったが、劉生を含め多くのメンバーは春陽会に活動の場を写した。