14)日本の洋画黎明期の画家たち その9 山本芳翠

その9 山本芳翠

山本芳翠は嘉永3年(1850年)美濃恵那郡明智村(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む 山本権六の長男として生まれる。明治時代の日本の洋画家である。 明治39年(1906年)没。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第に模写したと本人が回想している。 慶応元年(1865年)15歳の時北斎漫画に啓発されて画家を志す。 始めは京都で久保田雪江に南画を学ぶ。その後横浜で五姓田芳柳の門に入り、南画から洋画に転向。 五姓田芳柳の次男義松がチャールズワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に 触れる。 明治6年(1873年)末には東京に移り、肖像画で一家を成すまでになった。 1876年(明治9年)工部美術学校に入学し、アントニオフォンタネージの指導を受ける。 同年第1回内国勧業博覧会に勾当内侍月詠図を出品、花紋賞受賞、宮内庁買い上げとなる。 1876年(明治11年)フランスに留学、エコールデボザールでジェロームに絵画技法を学ぶ。 ここに日本から来た黒田清輝もいたが、黒田は法律家志望であったが、芳翠の強い勧めで洋画家に 転向させる。 1887年(明治20年)に帰国。版画家合田清とともに画塾生巧館を主宰、湯浅一郎、藤島武二、 白滝幾之助、北蓮蔵などを育てる。 1889年(明治22年)松岡寿、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎らと明治美術界を設立。 1894年(明治27年)黒田清輝が帰国すると、芳翠は画塾生巧館を黒田に譲る。黒田は画塾を 天真道場と改めた。 明治29年に明治美術界を脱退して、黒田が結成した白馬会に参加したが、晩年は演劇や歌劇に おける洋風舞台装置の制作を行った。