14)日本の洋画黎明期の画家たち その11 渡辺文三郎

その11 渡辺文三郎

渡辺文三郎は嘉永6年(1853年)備中国(岡山県)矢掛町に生まれる。昭和11年(1936年)没。 少年期に円山派豊彦の門弟種彦に日本画を学び、漢学塾興譲館に通学する。 1873年(明治6年)ころ、数学の学習を志して上京したが、同郷の先輩阪谷朗蘆方に寄寓し五姓田義松 に師事する。 1876年芳柳の長女勇子(のちの幽香)と結婚する。 1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会に洋灯下青年勉学図を出品。 同年東京大学予備門、大一高等中学校、高等学校の教師となる。 主な作品に相州海扶桑艦航海、春景山水、塩原福渓之図、塩原林之図など、油彩水彩多数。 著書のに中学臨画帳、習画自在がある。 渡辺文三郎は備中で円山派を学んではいますが、数学の道を志すなど、西洋に積極的に関わろうという姿勢 が伺われます。ちょうど忠臣義士の原画を描いたであろう頃に結婚してます。 又、なぜ文三郎が白虎隊をエーマにしたのか、なぜ忠臣義士の図を描いたのか、はっきりしない点だ多い ですが、当時の出版事情として画家の自由には出来なかった世相があります。画家が描きたいという希望 だけではどうにもならない時代でした。ある程度マーケットが確立さえており、刻々堂という出版社も 売れるとふんで出版したと思われる。 しかし彼の近親者は明治天皇など新政府寄りの絵を描いています。 五姓田芳柳は明治天皇の肖像画を沢山描いていますし、芳柳の息子で渡辺文三郎が師事した五姓田義松は 天皇巡幸にお抱え絵師として随行し、義松の妹で文三郎の妻、幽香も明治天皇の肖像画を手がけるなど 天皇家とは近い間柄でした。