14)日本の洋画黎明期の画家たち その3 佐竹曙山

その3 佐竹曙山(義敦)

寛延元年(1748年)-天明5年(1785年) 出羽の国久保田藩(秋田藩)第8代藩主、曙山は号、本名 義敦。 明和年頃(1765年)、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれている狩野派から絵を学んだ。 そして藩士の小野田直武からからも教えを受けて、日本画と西洋画を組み合わせた一代的な画法 を作り出した。 佐竹義敦の命により、平賀源内の下で絵の修行に励んだ小野田直武は源内の友人であった杉田玄白 の解体新書における付図の作画を行った。 そして秋田の帰国後、義敦と直武は画法綱領、画図理解 などの西洋画論を著した。 これは日本最初の西洋画論である。 義敦は松に唐鳥図(重要文化財)、燕子花にハサミ図、竹に文鳥図、湖山風景図などの絵画のほか 膨大な数のスケッチを描き、それを写生帖にまとめている。 義敦と直武が創始した洋風画は秋田派とも秋田蘭画とも呼ばれている。 義敦は天明5年(1785年)38歳で死去した。 秋田蘭画の多くは絹本着色で掛け幅という東洋画の伝統的な形態をとりながらも、画題の上では 洋風の風景画や静物画を、技法の上では陰影法、や大気遠近法など、西洋絵画の手法を多く 取り入れており、近景に濃淡の花鳥、静物をおき、遠景には水辺などの風景、あるいは何も描かず 淡い色彩で距離感を表している場合が多く、また縦長構図の作品が多い。