14)日本の洋画黎明期の画家たち その6 横山文六

その6 横山文六

日本は寛永16年(1639年)から200年に及ぶ鎖国体制に入り、幕府の強い管理下とはいえ 唯一交易を許されたオランダだけが長崎を文化交流の地として文物を日本に送り込んでいた、 西洋画法が日本に入ってきて北海道に伝わるのは秋田、長崎との直接的なかかわりは全くない。 外国に向けて開港された箱館(函館)から洋画の歴史が始まる、という点では長崎のそれと同様な 形をとっている。 長い鎖国時代が終わって安政元年(1854年)幕府は日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約 を結び長崎、下田、函館を開港する。 そして入港したロシア軍艦の乗組員によって函館の西洋画は黎明期の入口に立つ。 ロシアの画家レーマンがロシア軍艦デアナ号で函館に入港、上陸して街の景色を描いていると、 高田家の一族 横山文六(幼名 松三郎)という少年に話しかけられる。その熱心さにひかれて レーマンは洋画の手ほどきをした、と伝えられている。 文六は明治6年(1873年)ごろ高橋由一の天絵舎と肩を並べて東京下谷地に洋画塾を開いた。 文六(松三郎)は天保9年(1838年)生まれ。 ロシアの軍艦デアナ号が再来日したとき、ここに絵も描き、写真も撮る、海軍中尉アレキサンドル、 ファードロビッチモジャイスキーが乗り組んでいた。モジャイスキーの前にロシア語が片言話せる 横山文六が現れた。 モジャイスキーと文六は函館の山道を歩き、文六はモジャイスキーの手先をじっと見つめ、 まずは実景を速写し、しかるのちおもむろに正写調整すべし、と教えを受けたという。 文久元年(1861年)ロシア人レーマンの助手となって西洋画や写真術を学ぶ。 北海道に西洋画法が入ってきたのはこのあたり、秋田、長崎から50年以上遅れている。 横山文六は北海道西洋画の黎明期の画家であり、同時に日本で最初の写真家でもある。