19-20世紀の美術運動 その1 アーツ&クラフトムーブメント

その1 アーツ&クラフトムーブメント(Arts and Crafts Movemennt)

アーツアンドクラフツ運動はイギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウイルアムモリス(1834年ー1896年) が主導したデザイン運動、美術工芸運動である。 この後に起きた、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの美術運動アールヌーボーに影響を与える ことになる。 ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。 モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。 モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコットプレス)やインテリア製品(壁紙、家具、ステンドグラス) などを制作した。 モリス商会の製品自体は結局高価なものになってしまい、裕福な階層しか使えなかったが、生活と芸術を一致 させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アールヌーボー、ウイーン分離派、ユーゲント シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られる。 日本の柳宗悦(1889年ー1961年民芸運動を起こした日本の思想家、美学者、宗教哲学者)もトルストイ の近代批判の影響から出発して、モリスの運動に共感し、1927年かってのモリスが活動していた ケルムスコットを訪ねた。 柳の民芸運動は日用品の中に美を見出そうとするもので、日本独自のものであるが、アーツ&クラフツの影響 も見られる。

 

19-20世紀の美術運動 その2 アールヌーヴォー

その2 アールヌーヴォー

アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭(1890年ー1905年)にかけてヨーロッパを中心に開花した 国際的な美術運動です。新しい芸術を意味する。 花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄や、ガラス といった当時の新素材の利用などが特徴です。 分野としては建築、絵画、工芸、グラフィックデザインなど多岐にわたっています。

第1次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アールデコへの 移行が起き。アールヌーヴォーは一旦衰退します。 しかし1960年代のアメリカでアールヌーヴォーのリバイバルが起こって、その豊かな装飾性、個性的な造形 の再評価が進み、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。 ブリュッセルやリガ歴史地区のアールヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。

アールヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエルビングの店の名前から出ている。 アールヌーヴォーの理論的な先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ&クラフツ運動である。 アールヌーヴォーのモチーフは花、草、樹木、昆虫、動物などである。これらを住居の中に美を取り入れる だけでなく、自然界にある美的な感覚を気づかせることになった。 また鉄の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するに至った。 アールヌーヴォーの画家としてはナンシー派運動のメンバーであったルイギンゴ、他にアンリベルリデフォンテーヌ、 ジュールシェレ、ジョルジョドフールなどがいる。 スイスのアンドレエヴァールもその1人である。

19-20世紀の美術運動 その3 ジャポニズム

その3 ジャポニズム

ジャポニズムあるいはジャポニスムとは、ヨーロッパで見られた日本趣味のこと。 19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ日本美術が出品され、大きな注目を集めた、そして西洋の作家 たちに大きな影響を与えることになった。出品された美術品は浮世絵、琳派、工芸品などである。 1870年にはフランス美術界においてジャポニズムの影響はすでに顕著であった。 ジャポニズムは画家や作家たちに多大な影響を与えた。ゴッホの名所江戸百景の模写やクロードモネの着物 を着た少女が非常に有名で、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。

19世紀後半から写実主義が衰え、印象主義を経てモダニズムに至る変革が起きた。この大きな変革の段階 で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニズムであった。 ジャポニズムは流行にとどまらず、それ以降1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となった。

ジャポニズムの前段階でジャポネズリーという日本趣味の美術運動があったことを追記しておきます。 ジャポネズリーとは日本趣味のことです。 嘉永年間、黒船来航により多くの商船が西洋から押し寄せた。当時の写真技術と印刷技術により、日本の 様子が西洋に広く知られるようになる。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画が欧米でまたたく間に 人気になった。この熱狂的な日本の美術品、特に浮世絵版画の収集が後のジャポニズムへと繋がっていく

19-20世紀の美術運動 その4 アールデコ

その4 アールデコ

アールデコはアールヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパやアメリカを中心に1910年代半ばから 1930年代にかけて流行した装飾美術の運動。 アールデコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。この博覧会の正式な名称は 現代装飾美術産業美術国際博覧会といい、略称をアールデコ博という。これにちなんでアールデコと呼ばれる。 世紀末のアールヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車 飛行機、各種工業製品といったものが生まれ、時代の移り変わりに伴い、世界中の都市で同時代に流行して 大衆に消費された装飾である。富裕層向けの1点ものが中心となったアールヌーヴォーのデザインに対し、 アールデコのデザインは1点ものも多かったが大量生産とデザインの調和をも取ろうとした。 アールデコの影響を受けた分野は多岐にわたり、広まった。 アールデコは装飾ではなく規格化された形態を重視する機能的なモダニズムの論理に合わないことから、 流行が去ると、過去の悪趣味な装飾と捉えられた。従来の美術史、デザイン史では全く評価されなくなった。 しかし、1966年パリでの25年代展以降、ポストモダニズムの流れの中で再評価が進んだ。 アールデコ建築の代表的なものはニューヨークの摩天楼(クライスラービル、エンパイヤーステートビル、 ロックフェラーセンターなど)が有名。 日本でも昭和期初期の一時期アールデコ様式が流行した。東京都庭園美術館(旧 朝香宮邸)他。

19-20世紀の美術運動 その5 シミュレーショニズム

その5 シミュレーショニズム

シミュレーショニズムは1980年代のニューヨークを中心に広まった美術運動です。 近代芸術の唯一性に反対し、大衆芸術のイメージをカットアップ(カットアップ技法といい、テキストを ランダムに切り刻んで新しいテキストを造り直す、偶然性の文学技法またはジャンルのこと)、サンプリング (過去の曲や音源の一部を引用し、再構築して新たな楽曲を制作する音楽制作法、表現技法のこと)、 リミックス(音楽などで複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法の1つ)、といった手法を 用いて盗用することを特徴とする。 シミュレーションアート、アプロプリエーションアートとも呼ばれる。 その背景にはジャンボドリヤールがシミュラークルとシュミュレーションで指摘したように、オリジナル とコピーの区別が消失し、コピーが大量に消費される現代社会の様相がある。 簡単にコピーができる虚しさや寂しさを表現している。 映画の1シーンのような情景を演じたセルフポートレートを撮影したシンディーシャーマン、ウオーカーエバンス の写真を複写して自らの作品としたシェリーレヴィーンなどが代表的な芸術家とされる。 日本においては美術評論家の椹木野衣が1991年に記したシミュレーショニズムハウスミュージックと 盗用芸術における論説が芸術家などに大きな影響を与えた。

19-20世紀の美術運動 その6 オートマティズム

その6 オートマティズム

オートマティズムとは心理学用語で自動筆記、自動記述という意味。あたかも何か別の存在に憑依(物の怪が 乗り移る)されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象。 例えば、霊媒や、予言者などと呼ばれる人々は死者の霊が下りて来た、とか体を乗っ取られている、などの 理由により、無意識にペんを動かしたり、語り始めたりする。これは神霊などがこの世界に接触を図る方法 として説明されている。 日本では神がかり、お筆先とも呼ばれた。 第1次世界大戦後、フランスの詩人でダダイスト(1910年半ばの芸術思想)でもあったアンドレブルトン はダダイズムと決別して精神分析などを取り入れ、新たな芸術運動を展開しようとした。 彼は1924年シュルレアリスム宣言の起草によってシュルレアリスム(超現実主義)を創始したが、 彼が宣言前後から行っていた試作の実験がオートマティズム(自動記述)と呼ばれている。 これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験だった。 半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の 中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔しない意外な文章が出来上がった。 無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分たちの過ごす現実の裏側や内側にあると 定義されたより過剰な現実「超現実」が表現でき、自分たちの現実を見直すことができる、というもの。

19-20世紀の美術運動 その7 オリエンタリズム

その7 オリエンタリズム

オリエンタリズムは元来、特に美術の世界において、西ヨーロッパにない異文明の物事、風俗に対して抱かれた 憧れや好奇心などの事を意味する。西洋史や美術史などでは東方趣味、東洋志向などと訳されていた。 しかしながらパレスチナ出身のアメリカ批評家エドワードサイードの著書オリエンタリズム(1978年)に おいて今日的で新たな意味がこの言葉に付与された。 サイードは歴史を通して西ヨーロッパが自らの内部にもたない異質な本質とみなしたものを「オリエント東洋」 に押し付けてきたとし、東洋を不気味なもの、異質なものとして規定する西洋の姿勢をオリエンタリズムと呼び 批判した。 オリエント、東洋、東洋的とは西ヨーロッパによって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学など 広範な文化活動の中に見られる。 サイードによれば、それはしばしば優越感や傲慢さや偏見と結びつくばかりでなく、欧米の帝国主義の基盤とも なったとされる。 オリエンタリズムの一種として、東洋あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能 な女性として描く、といった傾向も指摘されている。 例えばハレムやゲイシャ、ミズサイゴンやディズニー映画ポカホンタスなどにオリエンタリスティックな視点 が見られる。

19-20世紀の美術運動 その8 ハイブリディティー

その8 ハイブリディティー

ハイブリディティーとは「混成性」。支配/被支配など、複数の文化の混在状況における政治的な力学やバランスの総称。 1990年代を迎えると同時に訪れた米ソ冷戦構造の崩壊は、美術の世界の力関係にも根本的な変化をもたらし、 多くの第三世界出身のアーティストが国際舞台に登場することとなった。 この急激な変化は、しばしばモダニズムの規範の崩壊と結びつけて語られ、またそれと並行して土着的な価値観と西洋的 な価値観とが混ざり合ったハイブリディティの成立をも強調することになった。 だがこのハイブリディティは、植民地支配の合間に繰り広げられる、植民者と被植民者との間の不断の対話を通じて 初めて生成するものであり、その意味では単なるエキゾチズムへと陥ることの多い皮相なマルチカルチャリズムとは 理論上区別して考えられねばならない。 美術においても、「大地の魔術師たち」展を契機として関心の高まった「ハイブリディティ」への関心は、その後多くの 国際展などによる検証を経て、ようやくその生成のプロセスにまで踏み込もうとしているのが現状である。 異種混交性。異質な要素が交じり合いながら存在していること。ハイブリッドという言葉そのものは生物学、電子工学、 情報科学をはじめとする様々な学問分野に見ることができる。 芸術を含む広義のの文化現象におけるハイブリディティーが問題とされるとき、そこで想定されているのは複数の言語 や慣習によって構成される個人や社会の存在である。 20世紀後半に加速化した文化や経済のグローバル化によって、人々の居住地や文化的なルーツはかってなく流動化 しつつある。それに伴いハイブリディティーという存在がますます多くの注目を集めるようになっている。

19-20世紀の美術運動 その9 プリミティヴィズム

その9 プリミティヴィズム

プリミティヴなものを尊重する美術思想。現在プリミティヴという言葉は3通りの意味がある。 1、西欧文明と異なる世界の芸術。 2、ルネッサンス以前の芸術。 3、素朴派の芸術(主として19世紀から20世紀にかけて存在した絵画の一傾向のこと。ナイーブアート)。 プリミティヴィズムはこのうち、2の視点から興ったものである。 これは19世紀のヨーロッパにおいて、盛期ルネッサンス以前のイタリアの美術家および15世紀のフランドル やフランスの画家に対し、自然主義的な再現や理想美の体得が完全に行えていないものである、という理解を もとに、彼らは西洋における美術の歴史的発展における初期の段階であると考えたことによる。 また近代美術においては印象派や後期印象派が1、の意味において、日本の浮世絵や南方諸島の美術を、 さらに20世紀のキュビズムやフォービズムなどにおいては黒人彫刻やオセオニアの原始民族美術への関心 というように展開している。 現代においては3、や精神障害者の作品、子供の作品などの美術制作活動も含み、人間の原点まで遡って 考えようとする姿勢となっている。 *フォービズム=20世紀初め、フランスの画家たち(マチス、ルオーなど)が始めた画風で原色的な色彩 豪放な筆使い、太い描線が特徴。野獣派。

19-20世紀の美術運動 その10 キュビズム

その10 キュビズム

キュビズムは20世紀初頭、パブロピカソとジョルジョブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ 現代美術の大きな動向である。 それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、色々な角度から見たものの形を一つの 画面に収め、ルネッサンス以来の一点透視図法を否定した。 キュビズムの出発点は、ピカソが1907年に描きあげた「アビニオンの娘たち」である。 この絵をごく一部の友人に見せたが反応は芳しいものではなかった。 しかしブラックはピカソの仕事の重要性に気づき、「大きな裸婦」(1908年)を描いてそのあとを追った。 そしてセザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、7点のセザンヌ的キュビズムの風景画を描き、1908年に 画廊で公開した。これを見た批評家がブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する。といった。 これがキュビズムの名の起こりとされている、 1909年からピカソとブラックは共同でキュビズム追及を始めた。 キュビズムがはじめて世に出てきた契機は1911年の第27回アンデパンダン展である。 ピカソとブラックの仕事に影響を受けた画家たちが会場の一室を占拠して、キュビズムのデモンストレーション を行った。観衆はそれらの醜い作品を見て衝撃を受け、口々に非難した。 しかしキュビズムの美術の分野における影響は大きく、絵画にとどまらず、彫刻、デザイン、建築、写真に まで影響が及んでいる。特に未来派、抽象絵画への影響は大きい。 理論的な難解さの一方で視覚的には新奇で人目をひくため、多くの画家の好みに合致したところがあり、 キュビズムはかなりの追随者を生んだ。

19-20世紀の美術運動 その11 シュールレアリズム

その11 シュールレアリズム

1924年 シュールレアリズムはアンドレブルトンのシュールレアリズム宣言によって始まった芸術 運動である。 シュールレアリズム的な表現はジョルジョデキリコの作品に見ることができる。 彼の絵は形而上絵画と呼ばれている。そののちシュールレアリズムが正式に誕生する。 シュールレアリズム提唱者のブルトンの宣言の定義は、シュールレアリズムとは理性による支配をまったく 受けず、あらゆる美学や道徳的な先入観の外側で記述された思考である、といったことが記されている。 その時代背景はダダイズムの運動(1910年代半ばに起こった芸術思想、運動のこと。第1次世界大戦 に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する否定、攻撃 破壊といった思想を特徴とする、) によってそれまでの既成の美の観念が否定と破壊にさらされていた。 その運動の後を引き継ぐように新しい美学を提唱するのがシュールレアリズムであった。 ダダイズムによって既成の権威が破壊されていく中、芸術の探求領域は無意識の世界に進むことになる。 そこに無意識の学説を提唱したフロイトの深層心理学の影響は大きい。 1920年代にシュールレアリズム絵画は大きく2つの様式に分かれる。 1つは、サルバドールダリなどに見られる厳密な写実主義による不条理性の表現、幻想的、幻想的世界の イメージ。この様式は現代でも様々な広告、映像などに取り入れられている。 2つ目はジョアンミロなどによるもの、オートマティスムの手法を使った感情的感情世界の抽象的な イメージである。その後の抽象絵画に大きな影響を与えた。

19-20世紀の美術運動 その12 フォーヴィズム

その12 フォーヴィズム

フォーヴィズム(野獣派)は20世紀初頭の絵画運動の名称です。 1905年にパリで開催された展覧会サロンドートンヌに出品された一群の作品の原色を多用した強烈な 色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイボークセルがあたかも野獣の檻の中にいるようだ、と評したこと から命名された。 象徴主義の画家で、当時エコールデボザール(官立美術学校)の教授をしていたギユスターヴモローが フォーヴィズムの画家たちの指導者であった。 彼が弟子たちに主張したのは、形式の枠組みの外で物事を考え、その考えに従うことであった。 主な弟子たちとは、この運動の中心人物である、アンリマティス、アンドレドランたちであった。 ヴォーヴィズムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属する ものでなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。 ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別して、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。 世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を想像 した。 フォーヴィズムの代表的な画家はマティス、ドラン以外にヴラマンク、デユフィ、ルオーなどがいる。 又日本人画家にも大きな影響を与えている。 梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、熊谷守一、里見勝蔵、三岸好太郎などなど、日本の洋画の黎明期を 支えた多くの画家たちである。