14)日本の洋画黎明期の画家たち その15 黒田清輝

その15 黒田清輝

黒田清輝は1866年(慶応2年)鹿児島薩摩藩士黒田清兼の子として生まれる。明治40年(1902年)没。 1893年(明治26年)27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。 法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、画家へ志望を転向。外光派の画家ラファエルコラン に師事し、アカデミックな絵画教育を受ける。 黒田を迎えて、日本の洋画界は大きな変化を遂げていくこととなる。 それまでは」明治9年開校の工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバルビゾン派風の作品が 主流であった。そこへ黒田は変化する光と大気の微妙な様を描き分ける、明るい色調の外光派風の作品を もたらした。この画風は新派、紫派と称され、たちまち人々の心をとらえていった。 また、黒田は西洋美術の伝統に基づいて、人体を描くことを重視、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着 させていく。明治29年東京美術学校に新設された西洋画科の指導を託されると、解剖学と実際の裸体モデル を使った人体デッサンを教育課程に組み入れた。 黒田が人体研究を重視したのは、構想画を絵画の最高位に位置づけたからである。 そのころ西洋ではポーズ等によって特定の意味や概念を象徴する人物像を組み合わせて神話や歴史、あるいは 愛や勇気などの主題を表す絵画が最も格が高いとされていた。 黒田もその価値観に従い、帰国後まもなく主題やモチーフを日本に求めた構想画として、昔語り、智、感、情 等を試みている。 明治31年東京美術学校西洋画科教授就任、同40年開設の文展のために尽力、 大正2年国民美術協会会頭、同9年貴族院議員となった。