14)日本の洋画黎明期の画家たち その23 藤田嗣治

その23 藤田嗣治

藤田嗣治(1886年ー1968年)レオナルド、フジタは東京都出身の画家、彫刻家。 現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家(晩年にフランスに帰化)である。 猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の乳白色の肌と呼ばれた裸婦像などは 西洋画壇の絶賛を浴びた。エコールドパリ(パリ派)の代表的な画家である。 エコール、ド、パリとは20世紀前半 パリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活 をしていた画家たち、1920年代を中心にパリで活動し出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。 1886年(明治19年)現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれた藤田嗣治は、父の上司 だった森鴎外の勧めも有り東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画に あきたらず、1913年、26歳のときにフランスに渡ります。 パリのモンパルナスに住んだ藤田嗣治はピカソやヴァンドンゲン、モディリアーニらエコールドパリの画家 たちと交流しました。 彼らに刺激され、独自のスタイルを追及するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感 を、油絵で表現しようと思いつきます。手製のなめらかなキャンバスの上に、面相筆と墨で細い輪郭線を引き 繊細な陰影を施した裸婦像は絶賛されました。 1919年にはサロンドトンヌに出品した6点の油絵が全て入選、ただちに会員に推挙されるなど、パリで 大人気となりました。 1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国、1933年以降は日本を活動拠点とします。 日中戦争が始まると祖国への貢献を願い戦争画の制作に没頭しますが、戦後は画壇から戦争協力者として 批判を浴び、その責任を取る形で、日本を離れます。 再びパリで暮らし始め、日本には戻らないと決め、1955年にフランス国籍を取得。 1959年 72歳のときにカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられています。