14)日本の洋画黎明期の画家たち その18 熊谷守一

その18 熊谷守一

熊谷守一(1880年(明治13年)-1977年(昭和52年))は日本の美術史においてフォービズム の画家と位置づけられている。しかし作風は徐徐にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。 富裕層の出身であるが、極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、二科展に出品を続け、画壇の仙人と呼ばれた。 守一は機械紡績を営む事業化で地主の熊谷孫六郎(初代岐阜市長)の三男として岐阜県恵那郡付知(現 中津川市付知町)に生まれ、子供時代から絵を好んだ。 1897年(明治30年)慶応義塾普通科に入学するが1年で中退。1899年(明治32年)召集。 1900年(明治33年)東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。 1906年(明治39年)樺太調査隊に参加してスケッチを行う。 1909年(明治42年)第3回文展で自画像蝋燭が入賞。 1915年(大正4年)第2回二科展に出展、以後毎年出品。 1922年(大正11年)42歳で大江秀子と結婚、5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。 1932年(昭和7年)池袋モンパルナスと称される地域の近くに家を建て、残りの生涯をこの家と15坪 の小さな庭からほとんど出ずに家族、猫、鳥と過ごす。 1947年(昭和22年)二紀会創立に参加。1951年(昭和26年)二紀会退会、無所属作家となる。 守一は写実画から出発し、表現主義的な画風を好み、やがて洋画の世界で熊谷様式といわれる独特な様式 極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な構成を持った抽象度の高い具象画スタイル を確立した。 岐阜県中津川市と東京都豊島区に熊谷守一美術館がある。