14)日本の洋画黎明期の画家たち その12 五姓田義松

その12 五姓田義松

五姓田義松は安政2年(1855年)に洋画家である五姓田芳柳の次男として江戸で生まれる。大正4年 (1915年)没。明治期に活躍した画家である。 義松は幼児から絵に才能を表して慶応元年、横浜で風刺漫画や油絵を描いていたイギリス人チャールズ、 ワーグマンに入門、明治元年ころ横浜に定住する。 1874年川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務。 1876年第1回内国勧業博覧会の洋画部門に阿部川富士図を出品し、鳳紋賞を受賞。 1878年より明治天皇のお付画家として北陸、東海地方の行幸に同行した。 1880年に渡仏し、レオンボナに師事。日本人初のサロンドパリ入選作家となる。この時出品したのは 水彩画であった。その後も画家デビビエの肖像、人形の着物でサロン入賞を重ねる。 1889年アメリカ合衆国を経由して帰国、明治美術会の創立に携わる。日清戦争にも従軍した。  義松は一見華やかな宮廷画家として論じられているが、あまり知られていない破滅的な負の時代があった。 それは8年に及ぶパリ留学時代に始まる。 はじめはサロンで活躍していたものの、その大半は借金に負われ、酒に溺れる荒んだ生活を送っていたらしい。 フランス女性との結婚を父に反対されたとも言われている。 義松の日記が公表され、その中にパリ滞在中の心の葛藤や苦悩が記されている。