14)日本の洋画黎明期の画家たち その26 黒田重太郎

その26 黒田重太郎

黒田重太郎(1887年ー1970年)は滋賀県大津市に生まれ、明治37年 17歳の時に京都に出て 鹿子木孟朗の門に入り翌年開設された聖護院洋画研究所に入所します。39年には浅井忠の内弟子となり 関西美術院に学んでいます。 鹿子木孟朗(かのこぎたけしろう)は明治39年浅井忠らと関西美術院を創立のちに院長となり関西画壇 を指導した人物。 明治44,45年、黒猫会、仮面会を結成し、新しい芸術運動を展開し、大正7年に渡仏。翌8年の 第6回二科展にピサロの影響を示す作品を発表して二科賞を受賞。 10年には再び渡仏、あんどれロートの写実的キュービズムの共鳴して、帰国後の第10回二科展でその 成果を発表しました。 その後も二科展で活動しますが昭和18年に退会し、戦後の22年に正宗得三郎、鍋井克之らと二紀会を 結成し、死去するまで活動の中心となりました。 一方、大正13年には信濃橋洋画研究所を昭和12年には全関西洋画研究所を開設するなど、関西洋画壇 の育成に尽力した。 昭和22年からは京都市立美術専門学校で教鞭をとり、25年以降は京都市立美術大学の教授として38年 に退職するまで後進の指導に情熱を注ぎました。 さらに美術関係の著書も多く残し、美術史研究においても優れた業績を残しています。