油絵の歴史

油絵(洋画)の歴史について少しだけふれておきます。
油絵は主に西洋で発達した絵画です。
ご存知のように何世紀も前から描かれています。
日本に入ってきたのは1890年ころですが、それよりはるか前、12世紀に始まったとされています。
この創成期を築いたのはイタリアのゴシック期のチマブーエという人です。
その後、イタリアルネッサンス期の代表的な芸術家レオナルド、ダ、ビンチ、やミケランジェロ、ラファエッロ
を経て17世紀のバロック期にはレイブラント、フェルメール、エルグレコなどが活躍してます。
18世紀のロココ期を経て19世紀は日本でもお馴染みの超有名画家が並びます。
クリムト、ミレー、ロセッティー、マネ、ピサロ、モネ、ルノアール、トガ、シスレー、セザンヌ、ゴッホ、
ゴーギャン、スーラなど。
20世紀には、マルク、シーレ、ピカソ、ブラックなど。
日本では明治27年(1890年)江戸生まれの高橋由一が洋画家第一号と言われています。
由一は本格的な油絵技法を習得して江戸末期から明治中頃まで活躍しました。
その後、黒田清輝、藤田嗣治、藤島武二、岸田劉生などが日本における洋画画壇の基礎を築きました。
2つの世界大戦をはさんで今日まで多くの洋画家が輩出しました。
現代では日本画と美術界を2分する大きな画壇となっています。

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油絵とその特徴

この章から本格的に油絵(油彩画)の世界に入っていきます。
これまで、初歩のデッサン、水彩画、デッサンなどのことについて述べてきましたが、ここから本題の
テーマである油絵について述べていきます。
まずは油絵とその特徴です。
他の絵画との決定的な違いは表現手法の技法や表現の幅の広さです。
この幅と深さが油絵の最大の特徴です。
絵の表面処理を行えば何百年もその輝きを失うことなく後世に伝えることができます。
絵を描く対象物のことを支持体といいますが、この支持体は普通は木枠に麻布を張ったキャンバスに
描きますが、他にもベニヤ板や金属の板などにも描きます。
油絵の特徴として水彩画と比較するとよく分かります。
透明感
水彩画は一発で透明な感じが出せます。
油絵は難しいです。テクニックが必要です。
匂い
水彩画は匂いがありません。
油絵は匂います。ほとんどの人は気にならないですが、中には耐えられない人もいます。
耐えられなくなって油絵から水彩画に転向した人もいるくらいです。
塗り直し
水彩画は塗る直しは難しい。
油絵は何度でも上に上にと色を重ねていくことができます。
制作時間
水彩画は短い。
油絵は長くかかります。
絵具
水彩画の方が大分安いでしょう。

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19-20世紀の美術運動 その12 フォーヴィズム

その12 フォーヴィズム

フォーヴィズム(野獣派)は20世紀初頭の絵画運動の名称です。 1905年にパリで開催された展覧会サロンドートンヌに出品された一群の作品の原色を多用した強烈な 色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイボークセルがあたかも野獣の檻の中にいるようだ、と評したこと から命名された。 象徴主義の画家で、当時エコールデボザール(官立美術学校)の教授をしていたギユスターヴモローが フォーヴィズムの画家たちの指導者であった。 彼が弟子たちに主張したのは、形式の枠組みの外で物事を考え、その考えに従うことであった。 主な弟子たちとは、この運動の中心人物である、アンリマティス、アンドレドランたちであった。 ヴォーヴィズムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属する ものでなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。 ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別して、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。 世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を想像 した。 フォーヴィズムの代表的な画家はマティス、ドラン以外にヴラマンク、デユフィ、ルオーなどがいる。 又日本人画家にも大きな影響を与えている。 梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、熊谷守一、里見勝蔵、三岸好太郎などなど、日本の洋画の黎明期を 支えた多くの画家たちである。

19-20世紀の美術運動 その11 シュールレアリズム

その11 シュールレアリズム

1924年 シュールレアリズムはアンドレブルトンのシュールレアリズム宣言によって始まった芸術 運動である。 シュールレアリズム的な表現はジョルジョデキリコの作品に見ることができる。 彼の絵は形而上絵画と呼ばれている。そののちシュールレアリズムが正式に誕生する。 シュールレアリズム提唱者のブルトンの宣言の定義は、シュールレアリズムとは理性による支配をまったく 受けず、あらゆる美学や道徳的な先入観の外側で記述された思考である、といったことが記されている。 その時代背景はダダイズムの運動(1910年代半ばに起こった芸術思想、運動のこと。第1次世界大戦 に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する否定、攻撃 破壊といった思想を特徴とする、) によってそれまでの既成の美の観念が否定と破壊にさらされていた。 その運動の後を引き継ぐように新しい美学を提唱するのがシュールレアリズムであった。 ダダイズムによって既成の権威が破壊されていく中、芸術の探求領域は無意識の世界に進むことになる。 そこに無意識の学説を提唱したフロイトの深層心理学の影響は大きい。 1920年代にシュールレアリズム絵画は大きく2つの様式に分かれる。 1つは、サルバドールダリなどに見られる厳密な写実主義による不条理性の表現、幻想的、幻想的世界の イメージ。この様式は現代でも様々な広告、映像などに取り入れられている。 2つ目はジョアンミロなどによるもの、オートマティスムの手法を使った感情的感情世界の抽象的な イメージである。その後の抽象絵画に大きな影響を与えた。

19-20世紀の美術運動 その10 キュビズム

その10 キュビズム

キュビズムは20世紀初頭、パブロピカソとジョルジョブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ 現代美術の大きな動向である。 それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、色々な角度から見たものの形を一つの 画面に収め、ルネッサンス以来の一点透視図法を否定した。 キュビズムの出発点は、ピカソが1907年に描きあげた「アビニオンの娘たち」である。 この絵をごく一部の友人に見せたが反応は芳しいものではなかった。 しかしブラックはピカソの仕事の重要性に気づき、「大きな裸婦」(1908年)を描いてそのあとを追った。 そしてセザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、7点のセザンヌ的キュビズムの風景画を描き、1908年に 画廊で公開した。これを見た批評家がブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する。といった。 これがキュビズムの名の起こりとされている、 1909年からピカソとブラックは共同でキュビズム追及を始めた。 キュビズムがはじめて世に出てきた契機は1911年の第27回アンデパンダン展である。 ピカソとブラックの仕事に影響を受けた画家たちが会場の一室を占拠して、キュビズムのデモンストレーション を行った。観衆はそれらの醜い作品を見て衝撃を受け、口々に非難した。 しかしキュビズムの美術の分野における影響は大きく、絵画にとどまらず、彫刻、デザイン、建築、写真に まで影響が及んでいる。特に未来派、抽象絵画への影響は大きい。 理論的な難解さの一方で視覚的には新奇で人目をひくため、多くの画家の好みに合致したところがあり、 キュビズムはかなりの追随者を生んだ。

19-20世紀の美術運動 その9 プリミティヴィズム

その9 プリミティヴィズム

プリミティヴなものを尊重する美術思想。現在プリミティヴという言葉は3通りの意味がある。 1、西欧文明と異なる世界の芸術。 2、ルネッサンス以前の芸術。 3、素朴派の芸術(主として19世紀から20世紀にかけて存在した絵画の一傾向のこと。ナイーブアート)。 プリミティヴィズムはこのうち、2の視点から興ったものである。 これは19世紀のヨーロッパにおいて、盛期ルネッサンス以前のイタリアの美術家および15世紀のフランドル やフランスの画家に対し、自然主義的な再現や理想美の体得が完全に行えていないものである、という理解を もとに、彼らは西洋における美術の歴史的発展における初期の段階であると考えたことによる。 また近代美術においては印象派や後期印象派が1、の意味において、日本の浮世絵や南方諸島の美術を、 さらに20世紀のキュビズムやフォービズムなどにおいては黒人彫刻やオセオニアの原始民族美術への関心 というように展開している。 現代においては3、や精神障害者の作品、子供の作品などの美術制作活動も含み、人間の原点まで遡って 考えようとする姿勢となっている。 *フォービズム=20世紀初め、フランスの画家たち(マチス、ルオーなど)が始めた画風で原色的な色彩 豪放な筆使い、太い描線が特徴。野獣派。

19-20世紀の美術運動 その8 ハイブリディティー

その8 ハイブリディティー

ハイブリディティーとは「混成性」。支配/被支配など、複数の文化の混在状況における政治的な力学やバランスの総称。 1990年代を迎えると同時に訪れた米ソ冷戦構造の崩壊は、美術の世界の力関係にも根本的な変化をもたらし、 多くの第三世界出身のアーティストが国際舞台に登場することとなった。 この急激な変化は、しばしばモダニズムの規範の崩壊と結びつけて語られ、またそれと並行して土着的な価値観と西洋的 な価値観とが混ざり合ったハイブリディティの成立をも強調することになった。 だがこのハイブリディティは、植民地支配の合間に繰り広げられる、植民者と被植民者との間の不断の対話を通じて 初めて生成するものであり、その意味では単なるエキゾチズムへと陥ることの多い皮相なマルチカルチャリズムとは 理論上区別して考えられねばならない。 美術においても、「大地の魔術師たち」展を契機として関心の高まった「ハイブリディティ」への関心は、その後多くの 国際展などによる検証を経て、ようやくその生成のプロセスにまで踏み込もうとしているのが現状である。 異種混交性。異質な要素が交じり合いながら存在していること。ハイブリッドという言葉そのものは生物学、電子工学、 情報科学をはじめとする様々な学問分野に見ることができる。 芸術を含む広義のの文化現象におけるハイブリディティーが問題とされるとき、そこで想定されているのは複数の言語 や慣習によって構成される個人や社会の存在である。 20世紀後半に加速化した文化や経済のグローバル化によって、人々の居住地や文化的なルーツはかってなく流動化 しつつある。それに伴いハイブリディティーという存在がますます多くの注目を集めるようになっている。

19-20世紀の美術運動 その7 オリエンタリズム

その7 オリエンタリズム

オリエンタリズムは元来、特に美術の世界において、西ヨーロッパにない異文明の物事、風俗に対して抱かれた 憧れや好奇心などの事を意味する。西洋史や美術史などでは東方趣味、東洋志向などと訳されていた。 しかしながらパレスチナ出身のアメリカ批評家エドワードサイードの著書オリエンタリズム(1978年)に おいて今日的で新たな意味がこの言葉に付与された。 サイードは歴史を通して西ヨーロッパが自らの内部にもたない異質な本質とみなしたものを「オリエント東洋」 に押し付けてきたとし、東洋を不気味なもの、異質なものとして規定する西洋の姿勢をオリエンタリズムと呼び 批判した。 オリエント、東洋、東洋的とは西ヨーロッパによって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学など 広範な文化活動の中に見られる。 サイードによれば、それはしばしば優越感や傲慢さや偏見と結びつくばかりでなく、欧米の帝国主義の基盤とも なったとされる。 オリエンタリズムの一種として、東洋あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能 な女性として描く、といった傾向も指摘されている。 例えばハレムやゲイシャ、ミズサイゴンやディズニー映画ポカホンタスなどにオリエンタリスティックな視点 が見られる。

19-20世紀の美術運動 その6 オートマティズム

その6 オートマティズム

オートマティズムとは心理学用語で自動筆記、自動記述という意味。あたかも何か別の存在に憑依(物の怪が 乗り移る)されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象。 例えば、霊媒や、予言者などと呼ばれる人々は死者の霊が下りて来た、とか体を乗っ取られている、などの 理由により、無意識にペんを動かしたり、語り始めたりする。これは神霊などがこの世界に接触を図る方法 として説明されている。 日本では神がかり、お筆先とも呼ばれた。 第1次世界大戦後、フランスの詩人でダダイスト(1910年半ばの芸術思想)でもあったアンドレブルトン はダダイズムと決別して精神分析などを取り入れ、新たな芸術運動を展開しようとした。 彼は1924年シュルレアリスム宣言の起草によってシュルレアリスム(超現実主義)を創始したが、 彼が宣言前後から行っていた試作の実験がオートマティズム(自動記述)と呼ばれている。 これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験だった。 半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の 中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔しない意外な文章が出来上がった。 無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分たちの過ごす現実の裏側や内側にあると 定義されたより過剰な現実「超現実」が表現でき、自分たちの現実を見直すことができる、というもの。

19-20世紀の美術運動 その5 シミュレーショニズム

その5 シミュレーショニズム

シミュレーショニズムは1980年代のニューヨークを中心に広まった美術運動です。 近代芸術の唯一性に反対し、大衆芸術のイメージをカットアップ(カットアップ技法といい、テキストを ランダムに切り刻んで新しいテキストを造り直す、偶然性の文学技法またはジャンルのこと)、サンプリング (過去の曲や音源の一部を引用し、再構築して新たな楽曲を制作する音楽制作法、表現技法のこと)、 リミックス(音楽などで複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法の1つ)、といった手法を 用いて盗用することを特徴とする。 シミュレーションアート、アプロプリエーションアートとも呼ばれる。 その背景にはジャンボドリヤールがシミュラークルとシュミュレーションで指摘したように、オリジナル とコピーの区別が消失し、コピーが大量に消費される現代社会の様相がある。 簡単にコピーができる虚しさや寂しさを表現している。 映画の1シーンのような情景を演じたセルフポートレートを撮影したシンディーシャーマン、ウオーカーエバンス の写真を複写して自らの作品としたシェリーレヴィーンなどが代表的な芸術家とされる。 日本においては美術評論家の椹木野衣が1991年に記したシミュレーショニズムハウスミュージックと 盗用芸術における論説が芸術家などに大きな影響を与えた。

19-20世紀の美術運動 その4 アールデコ

その4 アールデコ

アールデコはアールヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパやアメリカを中心に1910年代半ばから 1930年代にかけて流行した装飾美術の運動。 アールデコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。この博覧会の正式な名称は 現代装飾美術産業美術国際博覧会といい、略称をアールデコ博という。これにちなんでアールデコと呼ばれる。 世紀末のアールヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車 飛行機、各種工業製品といったものが生まれ、時代の移り変わりに伴い、世界中の都市で同時代に流行して 大衆に消費された装飾である。富裕層向けの1点ものが中心となったアールヌーヴォーのデザインに対し、 アールデコのデザインは1点ものも多かったが大量生産とデザインの調和をも取ろうとした。 アールデコの影響を受けた分野は多岐にわたり、広まった。 アールデコは装飾ではなく規格化された形態を重視する機能的なモダニズムの論理に合わないことから、 流行が去ると、過去の悪趣味な装飾と捉えられた。従来の美術史、デザイン史では全く評価されなくなった。 しかし、1966年パリでの25年代展以降、ポストモダニズムの流れの中で再評価が進んだ。 アールデコ建築の代表的なものはニューヨークの摩天楼(クライスラービル、エンパイヤーステートビル、 ロックフェラーセンターなど)が有名。 日本でも昭和期初期の一時期アールデコ様式が流行した。東京都庭園美術館(旧 朝香宮邸)他。

19-20世紀の美術運動 その3 ジャポニズム

その3 ジャポニズム

ジャポニズムあるいはジャポニスムとは、ヨーロッパで見られた日本趣味のこと。 19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ日本美術が出品され、大きな注目を集めた、そして西洋の作家 たちに大きな影響を与えることになった。出品された美術品は浮世絵、琳派、工芸品などである。 1870年にはフランス美術界においてジャポニズムの影響はすでに顕著であった。 ジャポニズムは画家や作家たちに多大な影響を与えた。ゴッホの名所江戸百景の模写やクロードモネの着物 を着た少女が非常に有名で、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。

19世紀後半から写実主義が衰え、印象主義を経てモダニズムに至る変革が起きた。この大きな変革の段階 で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニズムであった。 ジャポニズムは流行にとどまらず、それ以降1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となった。

ジャポニズムの前段階でジャポネズリーという日本趣味の美術運動があったことを追記しておきます。 ジャポネズリーとは日本趣味のことです。 嘉永年間、黒船来航により多くの商船が西洋から押し寄せた。当時の写真技術と印刷技術により、日本の 様子が西洋に広く知られるようになる。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画が欧米でまたたく間に 人気になった。この熱狂的な日本の美術品、特に浮世絵版画の収集が後のジャポニズムへと繋がっていく

19-20世紀の美術運動 その2 アールヌーヴォー

その2 アールヌーヴォー

アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭(1890年ー1905年)にかけてヨーロッパを中心に開花した 国際的な美術運動です。新しい芸術を意味する。 花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄や、ガラス といった当時の新素材の利用などが特徴です。 分野としては建築、絵画、工芸、グラフィックデザインなど多岐にわたっています。

第1次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アールデコへの 移行が起き。アールヌーヴォーは一旦衰退します。 しかし1960年代のアメリカでアールヌーヴォーのリバイバルが起こって、その豊かな装飾性、個性的な造形 の再評価が進み、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。 ブリュッセルやリガ歴史地区のアールヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。

アールヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエルビングの店の名前から出ている。 アールヌーヴォーの理論的な先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ&クラフツ運動である。 アールヌーヴォーのモチーフは花、草、樹木、昆虫、動物などである。これらを住居の中に美を取り入れる だけでなく、自然界にある美的な感覚を気づかせることになった。 また鉄の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するに至った。 アールヌーヴォーの画家としてはナンシー派運動のメンバーであったルイギンゴ、他にアンリベルリデフォンテーヌ、 ジュールシェレ、ジョルジョドフールなどがいる。 スイスのアンドレエヴァールもその1人である。

19-20世紀の美術運動 その1 アーツ&クラフトムーブメント

その1 アーツ&クラフトムーブメント(Arts and Crafts Movemennt)

アーツアンドクラフツ運動はイギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウイルアムモリス(1834年ー1896年) が主導したデザイン運動、美術工芸運動である。 この後に起きた、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの美術運動アールヌーボーに影響を与える ことになる。 ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。 モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。 モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコットプレス)やインテリア製品(壁紙、家具、ステンドグラス) などを制作した。 モリス商会の製品自体は結局高価なものになってしまい、裕福な階層しか使えなかったが、生活と芸術を一致 させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アールヌーボー、ウイーン分離派、ユーゲント シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られる。 日本の柳宗悦(1889年ー1961年民芸運動を起こした日本の思想家、美学者、宗教哲学者)もトルストイ の近代批判の影響から出発して、モリスの運動に共感し、1927年かってのモリスが活動していた ケルムスコットを訪ねた。 柳の民芸運動は日用品の中に美を見出そうとするもので、日本独自のものであるが、アーツ&クラフツの影響 も見られる。

 

14)日本の洋画黎明期の画家たち その50 荻須高徳

その50 荻須高徳

荻須高徳(1901年ー1986年)は大正、昭和期の洋画家で愛知県稲沢市生まれです。 東京美術学校では小磯良平と同期生。新制作協会会員。 1927年東京美術学校を卒業後、渡欧。 美術学校の先輩であった佐伯祐三に導かれてパリの街角で絵を描き始める。 以来、生涯、主にパリという都市にモチーフを求め続けることになる。 だが同じようにパリを描いたヴェラマンク、ユトリロや佐伯と異なり、荻須は情感、文学的香り、詩情 を前面に押し出す事を離れて、パリを探索し、そこでその都度発見した街並みや建造物のつくる構成、 形、色、マチエールを、おもしろさを、自らの視覚でとらえて再構築し、それらを重厚、堅牢で時と してモニュメンタルな画風へ高めるという造形主義の姿勢をとった。 この点では、荻須は、レンプラント、セザンヌ、などのヨーロッパの画家たちの築き上げてきた技法と その背後にある、精神の伝統のひとつを消化しえた、数少ない日本人画家のひとりであった。 荻須は、日本人的情感、を盛り込むことなく、西洋絵画の伝統を土台とし、ヨーロッパの事物のみを 扱いながら造り上げた自らの造形世界を日本人のみならず、ヨーロッパ人に向けて提示し続けた。 この作家は明治以来の滞欧作家たちの中で、短期間の滞在後、日本で作品を発表した、いわゆる 留学型作家に対して、海外に活動の拠点を置いた、定住型作家と呼ばれた人々の中でも特異であり、 日本人作家の国際化の先駆けのひとつである。

 

14)日本の洋画黎明期の画家たち その49 岡田謙三

その49 岡田謙三

岡田謙三(1902年(明治35年)-1982年(昭和57年))は横浜で生まれた洋画家です。 東京美術学校を中退して1924年に渡仏。4年間過ごす。 帰国後二科展を中心に制作活動を行い、戦後日本の主要画家の1人とされながらも名声と実績の全てを 捨てて1950年に渡米。 ヴェネチアビエンナーレ、ピッツバーグ国際美術展など多くの美術展で受賞を重ね、全米優秀芸術家に 二度選出される。 48歳の時にニューヨークに渡って、いわばアメリカンドリームを遂げた画家である。 渡米前は人気作家の証である、新聞の連載小説の挿絵や雑誌の表紙絵などを多く手がけて、生活も安定 していた。 アメリカでは文字通りゼロからの再出発を図ったのである。 アメリカの新しい絵画の動向をのぞいてみようといった軽い関心ではなく、自分の絵画をさらに進める ためにはゼロから立てなおさなければなたない、という決意であり決断だった。 具象の絵を惰性で描いているようで耐えられなくなった。描くことに食欲がなくなった。パリに行くのも いいが、そこにはいつも背広を着ていなくてはならない、日本に似た堅苦しい伝統がある。 そんな伝統のないアメリカでゼロからやり直したいーー(本人弁) 謙三は渡ったニューヨークで一大転換を成し遂げる。そこで画壇を席捲していた抽象表現主義に触発 されて、新たな表現手法を得て、全米優秀芸術家に1人に挙げられるほどになる。 画家を志した初心を貫き通して獲得した大いなる実りだった。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その48 猪熊弦一郎

その48 猪熊弦一郎

猪熊弦一郎(1902年ー1993年)は昭和期の洋画家です。 新制作協会創立会員。 丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館に彼の作品が常設展示されている。 建築家丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は弦一郎作。 1902年高松市で生まれる。丸亀市に転居。旧制丸亀中学校卒業後、東京美術学校洋画科に入学。 藤島武二に師事。 1926年「婦人像」で帝展初入選。その後「座像」で特選。無鑑査となる。 1936年帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立。 1938年渡仏、アンリマティスの指導を受ける。自らの画風を模索するが、なかなかマティスの影響から 抜け出せなかった。 1940年第2次世界大戦勃発、避難船白山丸で帰国。 終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足させ、後進の指導にあたる。 1955年活動の拠点をニューヨークに移し、マークロスコ、イサムノグチなど様々な著名人と交友関係 を持つ。 1973年脳血栓で倒れて、ニューヨークを離れ、1975年から温暖なハワイで冬を過ごし、創作活動 を続けた。 1980年勲三等瑞宝章を受章。 1993年 祝90祭猪熊弦一郎展で第34回毎日美術賞を受賞する。 1993年急逝。享年90歳。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その47 木下義謙

その47 木下義謙

木下義謙(1898年(明治31年)-1996年(平成8年))は和歌山県出身の洋画家です。 一水会創立会員、女子美術大学名誉教授。 父友三郎は法制局参事官、明治大学校長、学長を歴任した。 義謙は大正4年(1915年)学習院中等科卒業後、東京高等工業学校機械科に入学、卒業。翌年から 同校助教授となった。油彩画は独学で始めた。 大正10年第8回二科展に初入選。同時に独学で油彩画を勉強していた兄孝則も初入選した。 その後は二科展に出品をつづけ、大正15年の第13回展では「N氏の肖像」など出品、二科賞受賞。 また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加。 大正12年の第1回展から第4回展まで出品。大正15年に結成された1930年協会の会員となる。 昭和3年(1928年)から7年まで渡仏、パリで制作し、サロンドートンヌなどに出品。 帰朝した年の第19回二科展には滞欧作品36点が特別展示された。 昭和11年二科会会員を辞退。 同年、石井柏亭、安井曾太郎、兄の孝則とともに一水会を結成した。 戦後は一水会や日展に出品をつづける。 昭和22年からは女子美術専門学校の教授となり後進の指導にあたった。 昭和25年「太平街道」により芸能選奨文部大臣賞受賞。 またこの年より陶芸制作をはじめ、その後しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するよう になった。同33年には硲伊之助とともに一水会に陶芸部を創設した。 昭和54年勲三等瑞宝章受賞。翌年 和歌山県文化功労賞受賞。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その46 小山敬三

その46 小山敬三

小山敬三(1897年ー1987年)は昭和期の洋画家です。 フランス人と国際結婚したことでも知られている。 衆議院議員、初代小諸市長を勤めた小山邦太郎は兄。 小山敬三は小山久左衛門の三男として小諸に生まれ、慶応大学予科に入学。父は小諸城下の豪商、商家。 1916年(大正5年)父の反対を押し切り、画家になるため慶応大学を中退、川端画学校で藤島武二に師事。 1920年島崎藤村のすすめで渡仏。アカデミーコラロッシでシャルルゲランに油絵を学ぶ。 1928年帰国、神奈川県茅ヶ崎にアトリエを構える。 1936年(昭和11年)有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。 1958年日本芸術院賞受賞。 1960年日本芸術院会員。 1970年文化功労者。 1975年(昭和50年)文化勲章受賞。 長野県小諸市に小諸市立小山敬三美術館があります。 小諸市出身の小山敬三の個人美術館です。小山敬三が建築家村野藤吾に設計依頼した建物と所蔵作品を小諸市 に寄贈して、1975年に開館しました。館に隣接して、旧居宅兼アトリエが移築されて、記念館として 公開されています。 1985年(昭和45年)私財2億円を寄贈し小山敬三美術振興財団を設立、中堅の洋画家を対象にした 小山敬三賞の授与と油彩画修復技術家の留学奨励を行った(2006年解散)

14)日本の洋画黎明期の画家たち その45 硲伊之助

その45 硲伊之助

硲伊之助(1895年ー1977年)は東京生まれの洋画家、陶芸家。 1912年 第1回ヒュウザン会展に水彩画を出品。 1914年第1回二科展に出品、二科賞受賞。 1926年春陽会会員に推挙。 1928年 ロゾラン、アデリア、エルビラ(イタリア系フランス人)と結婚。 フランスから帰国後日本版画協会創立に参加。 1933年二科会会員に推挙。春陽会退会後、再度フランスに渡る。 1936年二科会退会。一水会の創立に参加。 戦前からフランスの画家の画集の解説を書き、多数の美術エッセイを記した。 戦後は日本美術界の委員長として活躍する傍ら、美術手帖、アトリエ、美術批評、芸術新潮などの 美術系雑誌と群像、中央公論、文芸春秋、世界、などに名画解説やエッセイを発表。 硲伊之助は26歳の時から通算約15年間滞欧しています。 その間、マチスに師事し、絵を見てもらう機会を得て、西洋画について本格的に学び、油彩画、石版画 以外に多色刷木版画を制作しました。 晩年、古九谷に出合い、現在の石川県加賀に窯(九谷吸坂窯)を造り、東京から移住し、九谷焼を制作 しました。1977年同地で没す。 硲伊之助は生涯一貫して色彩の調和を追及しました。 硲伊之助作品は古九谷の価値やその現代的意義について語ってくれています。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その44 木下孝則

その44 木下孝則

木下孝則(1894年-1973年)大正ー昭和期の洋画家。写実的な女性像を得意とした。戦後の一連の バレリーナの作品で知られた。 明治27年(1894年)東京に生まれる。 大正7-8年 京都帝大、東京帝大哲学科を中退。 大正10年(1921年)第8回二科展で初入選。洋画研究のため渡仏。 大正12年帰国。翌13年二科会展で樗牛賞受賞。大正14年(1925年)二科賞受賞。 昭和元年(1926年)前田寛治、佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎らと1930年協会を設立。 昭和2年 春陽会会員に推挙、 昭和3年 34歳で渡仏。以後帰国するまでサロンドートンヌに出品。 昭和5年 春陽会退会。 昭和10年 帰国 昭和11年 42歳で二科会会員に推挙され、滞欧作品19点を特別展示されるが、小山敬三らと同年退会。 昭和11年(1936年)一水会創立に参加。以後一水会展に出品。戦後は日展評議員もつとめる。 一貫して都会の洗練された婦人像を描き、穏健な写実家として知られた。 作品にN嬢像、後ろ向きの裸像、バレーダンサー、などがある。一水会の結成時の作品として、「I氏肖像」 東京国立近代美術館所蔵「T令嬢像」京都市美術館所蔵、がある。 昭和48年(1973年)横浜市で没、享年79歳。

 

14)日本の洋画黎明期の画家たち その43 石井伯亭

その43 石井柏亭

石井柏亭(1882年ー1958年)は日本の版画家、洋画家、美術評論家。 明治15年(1882年)東京都台東区に生まれ、父は日本画の石井鼎湖、弟は彫刻家の石井鶴三。 明治30年(1897年)浅井忠に入門して油絵を学ぶ。 明治33年(1900年)結城素明らが自然主義を標榜して結成した天声会に参加、新日本画運動を推進。 明治35年(1902年)太平洋画会に参加。 明治37年(1904年)東京美術学校洋画科に入学するが、眼病のため中退。 明治40年(1907年)山本鼎とともに美術雑誌方寸を創刊、近代創作版画運動の先駆をなした。 明治43年(1910年)ヨーロッパに外遊。帰国後大正2年(1913年)日本水彩画会を創立。 大正3年(1914年)有島生馬らとともに二科会を結成。 大正11年(1922年)東京帝国大学工学部講師。西村伊作が創立した文化学院で教壇にたつ。 昭和3年(1928年)フランス政府よりジオンドヌール勲章受賞。翌4年中央美術を創刊。 昭和10年(1935年)帝国美術院会員となり、二科会を辞す。 昭和11年(1936年)一水会を結成 昭和12年帝国芸術院会員 代表作「ウイーン」水彩は静岡県立美術館に所蔵。 東京十二景の連作(木版画)は和歌山県立近代美術館に所蔵されている。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その42 鍋井克之

その42 鍋井克之

鍋井克之(1888年ー1969年)は大阪府出身の洋画家。 東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。 フランスなどに留学後、1933年に二科会会員。 1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃洋画研究所を設立。大阪の美術界を盛り上げていこうと思い 結成されたもので、単に実技だけでなく理論も徹底して組み合わせた新しい教育方法で美術界に貢献しました。 1947年二紀会の結成に参加。 1950年芸術院賞受賞。 1964年浪速芸術大学教授に就任。 鍋井の描く作品の多くは風景画です。生涯をかけて風景画の本質を追求し、日本全国を廻って様々な芸術品 を描き続けます。 特に注目したい作品は紀伊半島の風景画です。現役の頃の鍋井は明るく聡明な紀伊半島の風景を非常に 気に入っており、数多くの風景画を制作しています。その中の「海辺の断崖」は、特に雄大で荒々しい岩肌 と穏やかに佇む海面のコントラストが印象に残る作品になっています。 一方、鍋井は挿絵などにも手を広げ、この分野でもその多彩な才能で活躍しています。 自らの生まれた土地である大阪を愛し、さらに大阪から発信すう芸術文化を日本に広めようと高い指導力 と行動力で示した鍋井克之。彼の功績は日本美術界にとって、とても大きなものでした。

41)日本の洋画黎明期の画家たち その41 有島生馬

その41 有島生馬

有島生馬(1882年(明治15年)-1974年(昭和49年))は横浜市出身の画家です。有島武郎の弟、里見弴の兄。 東京外国語学校卒業。藤島武二に師事し洋画を学ぶ。 少年時代からの友人であった志賀直哉や児島喜久雄らとともに「白樺」創刊に参加して文壇に登場。 兄、武郎の死後は、その実子、森雅之を育てた。 生馬はセザンヌを日本に初めて紹介するなど、画家として日本の美術界で重要な人物。 第二次世界大戦中に佐久市に疎開した縁で1950年に信州新町を訪ね、美しい犀川ダム湖を琅ろうかくこ鶴湖と 命名。信州新町の自然と素朴な人柄に惚れ込み8回も来訪を重ねました。湖畔に立つ赤い壁の西洋建築 有島生馬記念館は生馬のアトリエだったもの、琅鶴湖を見渡すラウンジに立つと、画家が好んだ静謐な空気 や山里の風情を感じることができます。 1906年(明治39年)欧州に留学、ローマ、パリで学ぶ。セザンヌ回顧展で大きな感銘を受ける。 1911年 文展に入選 1914年 二科会創立に加わる。 1935年 帝国美術院会員となる。 1936年 安井曾太郎らとともに一水会設立に参画 1958年 日本美術展覧会(日展)常務理事に就任 1964年 文化功労者 1974年(昭和49年)91歳で死去。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その40 山下新太郎

その40 山下新太郎

山下新太郎(1881年ー1966年)は洋画家で日本芸術院会員です。 幼少時から絵画に親しみ、1901年(明治34年)、画家を志して藤島武二に師事し、同年東京美術学校に 入学。同期に青木繁、熊谷守一、和田三造らがいる。 東京美術学校で油彩画を学んだ新太郎は5年間パリに留学しました。 その間ベラスケスや印象派の画法や色彩に注目し、特にルノワールに深く影響を受けました。 留学時に体得した表現はフランスでも評価され「読書」などにより続けてサロンに入選します。 画家にとって大切なのは手ではない、それは眼だ、眼が画を作るのだ。ルノワールの助言を山下は生涯、 大切にします。みずみずしい色彩と明るい光線が織り成す光と影によって、家族の肖像や気に入った風景 を自然光の下で描き続けました。 1910年(明治43年)帰国。1914年(大正3年)有島生馬、石井柏亭らと二科会結成。1935年(昭和6年)脱退。 1936年(昭和11年)一水会を創立。翌年帝国芸術院会員。 また、絵画制作だけでなく、表具師の家に生まれた山下は留学中に油彩画の修復や額縁にも関心を持ちます。 科学的な知識や修復技術も身に付け、帰国後はわが国油彩画修復の先駆者となりました。 研究成果をまとめた絵の科学はこの分野の古典的な名著とされています。 額縁収集も手がけた彼は、吟味した額に自作品を入れました。今も自分で選んだ額でそのまま飾られている 作品が少なくありません。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その39 和田英作

その39 和田英作

和田英作(1874年ー1959年)は鹿児島県垂水市に生まれた。黒田清輝、藤島武二とは同郷であった。 父親が海軍兵学校英語教師となったことで上京、明治学院に学ぶ。島崎藤村とも同窓であった。 1891年(明治24年)明治学院を中退して曾山幸彦、原田直次郎に本格的に洋画を学ぶ。 1894年黒田清輝らの指導する天真道場に入る。それまでの明治美術会系の暗い画面を捨てて、黒田清輝 に見られる明るい色彩の効果を貪欲に追求するようになる。 1896年(明治29年)白馬会結成に加わる。同年開設された東京美術学校西洋画科の助教授に招聘 される。 1897年ウイーン出身のコレクター、アドルフフィッシャーに日本国内の美術品収集の手助けをし、収集した 美術品の整理目録化も行う。この収集した600余点がウイーン分離派の第6回展(日本美術展)で公開された。 1900年(明治33年)文部省留学生に選ばれ、パリに行き、ラファエルコランに師事している。 日本からやってきた浅井忠と合流して共同生活を始める。 1902年に思郷でルサロンに入選。五姓田義松、藤雅三、黒田清輝に次ぐ快挙となった。 1903年(明治36年)に帰国。滞欧中にウジェーヌグラッセについて学んだデザイナーとしての才能も アールヌーボーのスタイルとして発揮した。 1932年(昭和7年)文化勲章受賞。 1959年(昭和34年)静岡県清水市で死去。享年84歳。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その38 金山平三

その38 金山平三

金山平三(1883年ー1964年)は大正、昭和の洋画家。 兵庫県神戸市生まれ。黒田清輝らに師事し、東京美術学校西洋画科を首席で卒業。助手として大学に残る。 28歳から31歳までパリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に行く。 この頃のパリには満谷国四郎、藤田嗣治、安井曾太郎、梅原龍三郎、小島虎次郎、足立源一郎など多くの 画家が滞在していました。 帰国後、文展初出品で特選第二席、翌年(1917年)「氷すべり」で特選第一席など官設展で受賞を重ねる。 36歳で帝展審査員に選ばれる。 また同年、後の平三の妻となる牧田らくと出合います。 らくは当時、東北帝国大学に在籍しており、国内初の女性理学士となりました。 平三はヨーロッパ同様、日本国内各地へ出かけ、日本の風景を卓越した技法で描きました。 山梨県勝沼、栃木県塩原、箱根、御殿場などを訪問しています。 1923年、はじめて山形県大石田を訪れ、47年から大石田が生活の中心となりました。 当地を描いた「雪景色」は日本人が見た日本の風景」として高く評価されました。 優れた色彩表現と安定した画面構成によって、日本の風景を描きました。 また画材を厳選するなど、生涯を通じて油彩画のマチエールを探求しました。 平三は1964年に帰らぬ人となりましたが、遺志によって叙位、叙勲も全て辞退。最後まで絵を描くこと だけに人生を捧げた孤高の画家といえるでしょう。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その37 海老原喜之助

その37 海老原喜之助

海老原喜之助(1904年ー1970年)は鹿児島県出身の洋画家。大正末期から昭和にかけてフランスと日本 で活躍した。鮮やかな青の色彩を多用、馬をモチーフにした作品を数多く制作した。 鹿児島市の中学校卒業後、上京してアテネフランセでフランス語を学びながら、川端画学校で絵画を学ぶ。 1923年(大正12年)19歳で渡仏、パリで創作活動していた藤田嗣治に師事。パリから出品した作品が 第10回二科展に初入選、翌年にはサロンドートンヌに初入選する。 1927年(昭和2年)フランスの画商アンリピエールロシェと契約して、「窓(カンヌ)」「姉妹ねむる」 「サーカス」を制作。翌年にはニューヨークで初の個展開催。 この頃からフランドル絵画に影響されて青を基調とした雪景の連作を描き始める。 1934年(昭和9年)帰国して日本で初個展。翌年独立美術協会会員に迎えられる。 1940年(昭和15年)日本大学専門部芸術科美術科講師となる。 1943年日大講師を辞して熊本県水俣市に疎開、その後人吉市に移る。 1950年(昭和25年)第1回南日本文化賞を受賞。後に熊本市に移転、海老原美術研究所を創立。 九州を本拠に創作活動を続け、1966年(昭和41年)から断続的に渡仏。 1968年(昭和43年)に藤田が死去した時には彼の葬式を取り仕切った。 その後はヨーロッパで創作活動を継続したが帰国を目前とした1970年、癌のためパリで死去。享年66歳。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その36 三岸好太郎

その36 三岸好太郎

三岸好太郎(1903年ー1934年)は北海道札幌市出身の洋画家です。戦前のモダニズムを代表する 画家の一人。画家の三岸節子(旧姓吉田)は妻。作家の子母沢寛は異父兄。 1921年札幌第一中学校を卒業後、画家を志して上京。 1923年第1回春陽展に入選。翌年第2回春陽展に「兄及び彼の長女」を出品、春陽会賞を受賞。 同年、画家の吉田節子と結婚。 アンリルソー風の素朴な画風から出発した三岸は、岸田劉生の東洋趣味への傾注を経て、中国旅行(1926年) の体験を元にしたエキゾティックでロマンティズム溢れる画風に転じた。 1930年福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加。面の男など道化をモチーフにした作品を多く発表。 この頃からジョルジョルオー風のフォーヴィズムの影響が顕著になる。 1932年に開催された巴里東京新興美術同盟展に衝撃を受け、その画風は前衛主義に急速に接近していく。 抽象形態を構成したコンポジションや線条様式のオーケストラなどを試作し、その後シュルレアリズムに 移行、1934年に「蝶と貝殻」シリーズを発表。中でも「海と射光」は晩年の代表作である。 同年7月旅行先の名古屋で胃潰瘍で吐血、31歳の短い生涯を終えた。

14)日本の洋画黎明期の画家たち その35 小磯良平

その35小磯良平

小磯良平(1903年ー1988年)は昭和期に活躍した洋画家です。肖像画、特に群像を多く手がけた。 親しみやすい女性像を中心としながら、西洋絵画の伝統の中に、市民的でモダンな感覚と気品あふれる画風を 完成した画家でした。 1903年貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市中山手通りに生まれる。 兵庫県立第二神戸中学校から東京美術学校西洋画科に進み、猪熊弦一郎、岡田謙蔵、荻須高徳らと共に学ぶ。 在学中に兄妹が帝展入選(1925年)、T嬢の像(1926年)帝展特選を果たす。 首席で卒業後1928年、フランスに留学。 ルーブル美術館のパオロヴェロネーゼ作「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマ とする。 1936年帰国後、新制作派協会の結成に加わる。 1938年から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を制作した。 1941年に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を発表。 戦後は東京芸大教授などを努めて、後進の指導にあたった。 1942年 第1回芸術院賞受賞             1979年     文化功労賞
1982年 日本芸術院会員
1983年 文化勲章受賞
兵庫県内に2つの小磯良平個人美術館がある。
兵庫県立美術館小磯良平記念室
神戸市立小磯記念美術館