14)日本の洋画黎明期の画家たち その21 高村光太郎

その21 高村光太郎

高村光太郎(1883年(明治16年)-1956年(昭和31年))は日本を代表する、彫刻家であり、 画家であった。が今日にあっては「道程」「智恵子抄」等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載され ており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。 しかし高村光太郎はパリからの留学から帰った後、1912年(明治45年)に駒沢にアトリエを建て、 岸田劉生らと結成した第1回ヒュウザン会展に油絵を出品するなど、明治大正にかけて日本の洋画界の 一角を成していた洋画家である。 フュウザン会の発起人は斉藤与里、岸田劉生、清宮彬、高村光太郎など。活動期間は短いが日本で初めて 表現主義的な美術運動として、先駆的な意義を持つ。他にも木村荘八、萬鉄五郎、バーナードリーチら。 ポスト印象派、フォービズムの影響が見られる。斉藤与里と岸田劉生の主張が食い違ったため、2回の 展覧会を開いたのみで解散した。   高村光太郎は1897年(明治30年)東京美術学校彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に 与謝野鉄幹の新誌社の同人となり、明星に寄稿している。1902年に彫刻科を卒業し研究科に進むが 1905年(明治38年)に西洋画科に移った。 岸田劉生らと洋画界で活躍しているころ、1914年(大正3年)詩集道程を出版。長沼智恵子と結婚。 1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、このころから智恵子の健康状態が悪くなり、のちに 統合失調症を発病し1938年(昭和13年)に智恵子と死別。 その後1941年(昭和16年)に詩集「知恵子抄」を出版した。