14)日本の洋画黎明期の画家たち その24 清水登之

その24 清水登之

清水登之は1887年(明治20年)栃木県下都賀郡(現在の栃木市)に生まれました。1945年没 幼いころから、画家になることに憧れをいだきつつ、はじめは軍人になることを志します。 くしくも士官学校への受験に失敗したことから、画家になること夢を実現するため、登之はまず、アメリカへ 渡ります。最初の5年間はワシントン州ワッバトの農園などで、ひたすら汗して働き、資金をためるという 生活でした。その後に移り住んだシアトルでは厳しい労働を続けながら、フォッコタダマという人物の画塾に 通います。5年にわたるシアトルでの生活の中で、登之は次第に画家としての頭角をあらわし始めます。 その後、ニューヨークへと生活の拠点を移します。 ニューヨークではデザインの仕事をしながら自由で先鋭な校風で知られるアートスチューデントリーグに 通いました。この学校には国吉康雄、石垣栄太郎、北川民治といった画家も通っていました。 夜間クラスを受け持っていたジョンスローンとの出合いは登之にとって決定的な意味を持つものでした。 スローンは都市に暮らす普通の人々のありのままの暮らしこそ目をむけるべきだとするアメリカンシーン派 を代表する画家の1人です。師スローンの影響から登之もまた市井の人々の暮らしをユーモアとともに 描きだすことになります。 一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に横浜夜景が招待出品。 一旦受賞が決まったもののアメリカ人でなかったため取り消しとなる。 1924年一家でパリに移住。三宅克己、藤田嗣治、海老原喜之助、清水多嘉示らパリ在住の画家たちと 交わりながら、サロンドートンヌで入選を果たす。 1927年に帰国。東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で地に憩ふにより二科賞受賞。 その後は独立美術協会の結成に加わる。 1932年ころは従軍画家となり戦争を題材とした絵を多く描いている。