14)日本の洋画黎明期の画家たち その25 中村彝

その25 中村彝

中村彝(つね)は明治20年 5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。大正13年没。 1歳の誕生日を迎える前に父を亡くした彝は陸軍軍人であった長男 直を父代わりとし、その影響を受けて 軍人を目指します。名古屋陸軍地方幼年学校に入学しスパルタ教育に耐え無事卒業、そして東京の陸軍中央 幼年学校に進学します。しかしその直後に肺結核と診断され、退校を余儀なくされ、失意のどん底に 突き落とされました。 そんな彝に救いの手を差し延べたのが絵画でした。以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は療養 しながら絵を描くようになります。 画業に励む決意を固めた彝は白馬会洋画研究所で本格的に学び始めます。 美術学校在学中には中原悌三郎、鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。 明治42年第3回文展で「巌」「曇れる日」が入選、巌は褒状を受賞、44年の文展で三等賞を得る。 同年彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。 アトリエで制作に熱中するあまり食事もろくにとらなかった彝を心配して相馬夫妻が食卓に招き、家族の 一員のように扱います。前記の文展で三等賞を取った人物画はこの相馬家の長女 俊子をモデルにしたもの です。しかし相馬夫婦は2人の仲を心配して次第に互いに接近することを妨げるようになります。 彝の恋は実らず、彼の短い生涯で最大の悲劇となりました。 以後、色々な土地を転々として、最終的に下落合のアトリエに落ち着きます。 傷心の彝は自炊生活や制作の疲れもあって、喀血が続きます。 友人から紹介された盲目の詩人ワシリーエロシェンコの像を友人と一緒に描き始め、作品は第2回帝展に 出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高傑作と評されました。 その後も精力的に自画像や家政婦岡崎キイをモデルに描きましたが、大正13年、結核のため永眠します。 37歳という短い生涯でした。