14)日本の洋画黎明期の画家たち その30 岸田劉生

その30 岸田劉生

岸田劉生(1891年ー1929年)は大正ー昭和初期の洋画家です。 父親は実業家、ジャーナリストの岸田吟香。 1891年(明治24年)東京銀座に生まれる。 1908年(明治41年)東京赤坂にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事した。 1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選。 1911年白樺主催の美術展がきっかけで、バーナードリーチと知り合い、武者小路実篤ら白樺周辺の 文化人とも知り合うようになった。劉生自身の図書、初期肉筆浮世絵、図画教育論などがある。 1912年高村光太郎、萬鉄五郎らと、ヒューザン会を結成。第1回ヒューザン会展には14点出品。 これが画壇への本格的なデビューといえる。 1915年(大正4年)現代の美術社主催第1回美術展(2回目以降は草土社展)に出品。 草土社のメンバーは木村荘八、清宮彬、中川一政、らであった。 第2回草土社展に出品された「切り通し写生(道路と土手と塀)」は劉生の風景画の代表作。 1917年(大正6年)結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢鴿沼の貸し別荘に療養の ため居住。 1918年頃から、娘の岸田麗子の肖像画を描くようになる。 この鴿沼に劉生を慕って草土社の椿貞夫や横堀角次郎も住むようになり、中川一政は岸田家の食客であった。 関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居、後に鎌倉に居住。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散に なったが、劉生を含め多くのメンバーは春陽会に活動の場を写した。