14)日本の洋画黎明期の画家たち その14 浅井忠

その14 浅井忠

パリの南東に位置するバルビゾン村の風景や農村を描いたバルビゾン派の画家たち。 その代表的な画家であるミレーが、名作落穂拾いを描いたのは1857年のこと。それからほぼ20年後 の1876年、武家に生まれた男がその作品を目にします。その作品がその男に大きな感動を与え、 日本の洋画の世界に夜明けをもたらしました。 日本のミレーといわれた男が1890年に描いた、浅井忠作「収穫」 描かれているのはどこにもあるような普通の田舎の風景。この絵が描かれた当時、日本の洋画界には ようやく日が当たり始めた頃でした。 浅井忠は黒田清輝とともに日本近代洋画界の先駆者と呼ばれ、その存在がなければ、日本の洋画の歴史は 確実に遅れていたと言われています。 浅井の傑作である収穫の陰には、浅井が生涯の師と仰いだアントニオ、フォンタネージの存在がありました。 1876年58歳の時に日本にやってきた彼はバルビゾン派の流れを汲む風景画家でした。 日本の美術学校に教師としてやってきました。 浅井忠は1856年江戸の佐倉藩中屋敷で藩の要職を務める父のもとに生まれました。1902年没。 1876年明治政府は外国人教師を招いて工部美術学校を創立しました。 浅井忠がその第1期生として入学したのは20歳の時でした。ここでフォンタネージから洋画の基礎を 徹底的に学びました。 1889年上野に東京美術学校が創設されたが岡倉天心らの強い主張で西洋画科は置かれませんでした。 浅井はこれに対抗して自らが中心となって80人の会員で明治美術会を結成。その年に第1回展覧会を 開催しました。 1896年政府は東京美術学校に洋画科を復活させ、浅井自身が教授となり、その後2年間のフランス留学 を経て、京都に移り住み、梅原龍三郎、安井曾太郎など、のちの日本洋画界を担う逸材を育てました。